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2003.6.14 |
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基礎学力テスト結果公表の意義…2003年6月、東京都荒川区内のすべての学校の、学力テスト成績一覧が公表された。全国でも初めての試みだ。教育委員会は「子どもの学力向上に地域全体で取り組むためには、各校の状況をきちんと情報提供すべきと考えた」と説明している。(http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20030605i514.htm )マスコミは、かつての「学級崩壊」報道ブームが去ったため、一応ニュースとして伝えるという姿勢のようだ。しかも、極く一部で行われた試行である、とのトーンである。試行なら、背景を述べるべきだと思うが、競争導入による改革の動きとするだけで、それ以上の説明はない。 ところが、「学校の序列化や競争の加熱を助長」との批判を付け加えることだけは忘れない。成績公表の是非に関する議論をしたい人がいるのである。 このような人がいるから、いつまでたっても意味の薄い議論が続くのである。一覧表の公開など、どうでもよい。今、とりあえず始めなければならないことは、学校がどのような方針で、何をしており、現在どのような状態かを外部に公表することである。その観点では、荒川区教育委員会は、ようやく第一歩を踏み出したにすぎない。 オープンに実態を語るには、成績一覧表しかないなら、公開するのは当然である。公開に反対するのは、学校の実態を公開したくないだけの話しである。実態隠蔽に励んでいる人達にとっては、荒川区教育委員会は不倶戴天の敵に見えるのは間違いあるまい。 荒川区教育委員会の方針ははっきりしている。学校は基礎学力をつける場であり、そのために目標を制定している。テストでその効果を判定するのは当然のことだろう。そして、この施策がどの程度効果があがったか開示したのである。企業なら、極く当たり前のマネジメントプロセスである。(http://www.city.arakawa.tokyo.jp/9/STUDY/shidoshitsu/index.htm) これだけのことなのに、大騒ぎである。これが、日本の教育界なのだ。 考えてみれば、この体質が、学校を混迷状態に追い込んだとも言える。そして、さらに悪化させることになろう。 学校の一番の問題とは、社会と隔絶された閉鎖的な文化を守り続けている点だ。社会が変わっているのに、その変化を感じ取ろうとしない。一般社会から見れば、異様な世界と言っても過言ではない。そんな所なら、何が起きても不思議ではない。 日本の教育専門家は、もっぱら、この理由から目をそらす役割を担っているといえる。 一番悪質なのは、家庭での躾不在、地域コミュニティの崩壊、社会のモラル喪失、等々をあげつらう人達である。学校の問題は社会問題の縮図だと主張する。確かに、社会問題はあるが、それは学校経営の問題ではない。外部環境が大きく変化しているだけの話しである。 外が変わっているのにもかかわらず、変身しなければ、企業ならとっくに消滅している。一般に、そのような没落企業の文化は同じ特徴を持つ。閉鎖的で、自惚れ体質だ。 おそらく、日本の教育界も同じだろう。発生した問題は外部が原因と決めつけ、できる限り内部情報を外に漏らさなければ、今の体制を続けることができる。 しかし、教育界をここまで閉鎖的集団に追い込んだのは、社会の方にも問題があることは確かだ。 そもそも、ピカピカの1年生から、教育が難しくなっているのは、素人でもわかる。ひらがなが全て書ける児童が増えている一方で、文字を学ぶこと自体が始めての児童もいる。一律に教えることができる筈がない。 才能や努力ではなく、家庭生活の違いで発生した現象である。最初から、これだけ差が大きいのだ。当然ながら、家庭生活の差は教育期間中も続くから、能力差は縮まるどころか、広がるだろう。これが現実である。能力差がある状態で、一律型教育が上手くいく筈があるまい。 社会は、この問題を、マネジメント能力に欠ける教育界にまかせ、頬かむりしてきたのである。 そのツケが学級崩壊である。 東京都では、学級崩壊に直面している公立学校の噂は珍しくもない。おそらく、2〜3割の学校で発生しているのではないだろうか。 これを抑えようとしても、学校の体質が変わらない限り無理だろう。社会とは異質な、閉鎖的文化を貫く限り、児童は学校に来れば必ず違和感を覚える。学校のルールが社会と違う理由など、児童に理解できる訳がない。しかも、そのルールは、つぎはぎだらけで、矛盾ばかり目立つ。信用されないのは当然である。 要するに、閉鎖性が強すぎて孤立しているから、学校に「社会」のルールが成立しないのだ。社会の抑止力が無くなれば、学級崩壊は必然である。たった一人の児童が、たまたま勝手な行動をとっただけで、秩序崩壊に繋がりかねないからだ。先生が注意しても、無視されるかもしれない。そして、誰も止めようともせず、皆が傍観者になったら、その時点で、すべてが一挙に瓦解する。 学校に「社会」が無いのだから、何時、どのクラスで学級崩壊が発生してもおかしくないのである。 学校に「社会」を取り戻す道は一つしかない。学校をオープンにして、社会の息吹を取り入れることだ。現実遊離の教育は百害あって一理無しである。 現実は、競争社会なのに、競争を否定する教育方針を貫くこと自体が、本末転倒といえよう。本来は、競争社会のなかで、能力差を活かし、どう棲み分けて生きていくべきか、考える場を提供すべきだと思うのだが。 社会で活躍するには、基礎学力が大事だ、との主張も、ほとんど聞いたことがない。これでは、児童に勉強する気力が湧く筈がなかろう。基礎学力不足では、社会に貢献したくても力の発揮しようがないから、学校で徹底的に叩き込む、とはっきり宣言すべきではないのか。 学校教育は、社会に貢献する人を輩出するために、税金を投入しているのである。 学校がすべきことは、自明である。 教育の危機の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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