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2005.2.9
 
 


リベラルアーツの意義…

 「日本の場合、・・・“技術優先”の世の流れと“即戦力”を求める企業姿勢のなかで、日本的瑣末化と専門化はとどまるところを知らず進んでいます。」(1)

 誰でもが、なんとはなしに感じていることだと思う。

 それでは海外は、と問えば、同じように進んでいると答えざるをえまい。
 (但し、海外では、これに抗して、研鑽に励むビジネスリーダーの集まりがあるのは確かだが。)

 実際、米国西海岸で働けば、正真正銘のコンピュータオタク経営者に出くわすそうだし、中国沿海州で雇った中国の大学生に論語の話をしても全く通じないことがよくあるという。

 周の時代に六芸が官制上の必修科目だったことは歴史で習った覚えがあるが、今や、こんなことさえ知らない中国の若者が多数派になっているのかもしれない。

 こうした風潮がさらに進めば一体どうなるのか、と危惧の念を抱く人は少なくないと思う。

 ・・・と考えさせられたのは、先日、大企業内で新規事業創出のリーダーとして大活躍されている方がリベラル・アーツが重要と語してくれたからだ。

 その通りだと思う。

 狭い領域の専門知識を貯めるだけでは、社会に貢献できる大きな仕事ができる筈がない。広い視野、柔軟な思考、健全な判断の3拍子が揃って、世の中を大きく変えるような成果が生まれるものだと思う。
 「リベラル・アーツ」は、その観点で、極めて重要なのは間違いあるまい。

 ところが、「リベラル・アーツ」と言えば、実生活に役に立たない一般教養とのイメージを持つ人が多い。

 誤解が広まっている気がする。
 “artes liberales”の原点に立ち返る必要があろう。

 おそらく、誤解の原因は「リベラル・アーツ」を一般教養とする訳語にある。
 一般という言葉が、皆が身につけるべきもの、という印象を与える。教養という用語も、内容は博学的な知識との勘違いを生みがちだ。
 この辺りから、考え直す必要がありそうだ。

 もともと、“artes liberales”の対象は自由市民だ。リーダーたるべき人のための技術である。リーダーとしての自覚を持ち、学ぼうと考える人のためのものだ。
 中国の、六芸にしても、同じようなことがいえよう。史記によれば「孔子の弟子3,000人。うち六芸に通ずる者72人」だった筈だ。
 自覚なき人が「リベラル・アーツ」は時間の無駄と感じるのは致し方あるまい。

 要するに、“artes liberales”は、自由[liberales]を追求することが極めて重要と考えている人のための技術[artes]なのである。
 つまり、対比語としてよく示される奴隷[serviles]的な技術とは全く異質のものである。実労働の技法は別なのだ。
 当然ながら、教育[pueriles]、娯楽[ludicrae]、世俗[vulgares]、とも違う。

 他人に支配されず、自立心を持ち、
 人に言われる前に、自律して動き、
 状況に対して受身ではなく、先導し、
 経済的目的だけに縛られず、社会のために貢献しよう
 と考える人達のための「学び」なのである。

 実際、“artes liberales”が示した重要技術を見れば、ビジネスマンならその本質はすぐにわかると思う。

 “artes liberales”はTrivium[3学]とQuadrivium[4科]の2グループ7つからなっており、その内容はわかり易い。

 趣旨を、勝手に解釈してみよう。(3)

 Grammatica loquitur, [文法は語る---語学はすべての基礎である。]
 Dialectica vera docet, [弁証は真実を教える--論理性の学習は不可欠だ。]
 Rhetorica verba colorat; [修辞は言葉を治める---文学的表現が人を動かす。]

 読み書きの技術、議論の技術、言葉の表現技法が第一歩ということだ。
 その上で、知ることと、感情表現の仕方を学ぶのである。

 Musica canit, [音楽で歌う.]
 Arithmetica numerat, [算術で数える.]
 Geometrica ponderat, [幾何で測定する.]
 Astronomica colit astra. [天文で宇宙を観察する.]

 これらには、生活のなかで、素朴に驚いたり、問題視したり、何かを伝えたくなることの意味を学ぶカリキュラムが含まれていると思う。

 つまり、以下の質問に対する答を、じっくり考える場が設定される、と考えればよいだろう。

 ・知るとは、どのような行動なのか。
 ・自己表現には、どのような意味があるのか。
 ・自分達は宇宙全体のなかで、どのような場所におり、どのような存在なのか。

 頭ではわかっていても、ビジネスマンは、こんなことを考える時間と場を失いつつあるようだ。
 尤も、いざ時間と場が提供されても、関心を示すとは限らないようだが。

 --- 参照 ---
(1) http://www.aspeninstitute.jp/01/index.html
(2) 礼、楽(音楽)、射(弓矢)、御(馬術)、書、数
  資本主義が日本に入って来た頃は、片手に論語 片手に算盤というのがビジネスマン像(渋沢栄一)だった。
(3) http://www.poly.edu/administration/articles/TriviumQuadrivium.cfm
  http://www.ccel.org/ccel/schaff/hcc4.i.xiii.vi.html


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