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2006.9.27
 
 


大学淘汰を早く進めて欲しい…

 古い話だが、“今春の大学入試で定員に見合う入学者が確保できず、定員割れとなった4年制の私立大学は過去最多の222校に上り、全体の4割を超えた”が、“大学や学部の新増設に歯止めがかからない”そうだ。(1)
 どう考えても市場は縮小一途なのに、キャパシティをさらに増やすというのだから、恐れ入る。中味が変わるのならわかるが、今迄と同じサービスなのである。
 大学淘汰が早く始まるような文教政策を打ち出してもらいたいものである。

 ・・・などと言うと、大半の先生は怒るに違いなかろう。
 ところが、淘汰した方がよいとの話を大学の先生から聞かされた。研究成果競争で切磋琢磨してきた先生の発言だが、人気の薄い大学での授業体験の結果、そう考えるようになったようだ。

 ほとんど勉強する気はない学生ばかりだったらしい。学生にとって、授業とは、出席するだけのものになっているというのだ。その場で、先生が自然に頭に入れてくれるものと考えているのではないか、とのこと。
 このような学生を大量に集める大学に意味などなかろうとの意見である。

 先進的な研究に携わってきた先生方は、おそらく、同じような見方だろう。

 一寸聞かされると、思わずうなづいてしまいかねないが、抜け落ちている点がある。学生だけを見ていて、教える方の問題には触れていないからだ。
 大学生を大量生産してきたということは、教える側の先生についても同じことが言える筈である。教える意味のない学生を粗製濫造しているなら、教えるのに適していない先生も増えているに違いあるまい。

 そもそも、研究職のポジションを争ったり、質の高い仕事で学会を牽引しようと意気込む先生は、全体から見ればほんの一握り。大多数の先生は、同じ職場で何の競争もなく、“教育者”として過ごすことを狙う。
 従って、世間的に見映えがするタイトルの講義を設定し、生き残りを図ることになる。本当の専門家が提供してくれる情報を、学生にかいつまんで講義することになる。これで、講義に特色が出る訳がないし、学生が勉強の喜びを知ることもあり得ないと思う。

 従って、特色ある優れた教育プログラムへの支援(2)は、この状況を突破するという点では正論だと思う。

 しかし、こうした施策に期待しない方がよい。対象が個々のプログラムにすぎないからだ。砂のなかの一粒が光ったところで大勢は変わりようがない。ひとつの大学として、特徴を出そうとしなければ意味は薄い。
 その特徴とは、どのような意気をもった先生の集団かで決まる。プログラム名の独自性や、有名先生の存在で決まるものではない。
 大量生産され、のんびり大学で生活したい先生方が集まっただけの大学では、いくら特徴を出そうとしても、上辺のお化粧直し以上のことができるとは思えない。

 --- 参照 ---
(1) http://www.nikkei.co.jp/news/main/20060724AT1G2402I24072006.html
(2) http://www.tokushoku-gp.jp/iinkai/data/h18_1-gijiroku.pdf


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