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2008.3.10 |
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英語の教科書を思い出して…プロフェッショナルをどう定義すべきか。別に、学問的に考えたいわけではないが、最近、少々気になるようになってきた。 と言うのは、○○専門家としてマスコミに出る人の本を読んでみたのだが、すぐに飽きてしまったから。 言うまでもないが、読みにくいとか、あまりの専門性で頭がついていけないのではなく、全く逆。知的風合いを醸し出しながら、読みやすく、本の内容も関心を呼んでいる領域。色々と新しい指摘もあるようだ。従って、のめりこんでもよさそうなものだが、そうはならないのである。 一生懸命書いてあるようだが、この著者は何故こんなことを書きたいのかわからないので、読んでいてさっぱり面白くないのである。 ○○専門家だから、その視点を期待するが、その見方が一番つまらないからでもある。要するに、こちらが考える専門家ではないということ。 間違ってはこまるが、軽薄化したヒット狙い本を批判しているのではない。その手の本なら、図書館に並んでいたら、ものの10分ほど割くだけで、全容がわかり、今、どんなことに関心が集まっていそうかわかるので結構重宝する。 なかには、いかにも、本の売り上げを原資にして、足りない研究費を補おうとの意図がほのかに伝わってくるものに当たる時もある。こうなると、思わず著者を支援したくなったりする。 ポイントはここだ。 つまり、意図がさっぱりわからない本は、読みようがなく、つまらないということ。 この感覚、教科書にも言えるのではないか。 それで、思い出すのは英語の教科書。 確かすぐに、“This is a pen.”や“I am a boy.”を覚えさせられた気がする。 幼稚園児教育ならわかるが、一体、何のためにこんな文章から覚えなければならないのか。 「これはペンです。」など言葉で言わなくても、見ればわかる。まさか、そんな文章を書くこともあるまいし。誰でもが、そんな気分に陥ったのではないか。 英語の挨拶の仕方にしても、授業の度に何度となく同じ言葉を暗唱させられる。しかし、小生の場合、未だにその言葉は一度も使ったことはない。挨拶は千差万別であると教える方が余程重要なのではないか。 今になって思えば、英語学習は、一番最初から、実践的なコミュニケーションスキルを身につけるように考えられていなかったことがよくわかる。それでは、何のためか。 今もって、これがわからない。 換言すれば、教科書を使って、教師がいくら教えてくれても、そのプロフェッショナル性は全く伝わってこないということ。 これは授業とは呼べるものではないのではなかろうか。 まずはこの辺りから変えたらよいのではないか。 別に難しいことを要求している訳ではない。 例えばこういうこと。 ともかく、“This is a pen.”方式は止めるべきである。相手は幼児ではないのである。 それでも、簡単な文章でなければこまるというなら、“It is a cool day.”などはどうか。・・・Itとは、一体なんなんだと考えさせるのは結構有用だと思う。“It is cool.”とはどこが違うのだという議論もよさそうだ。 そして、“This rain will cool the air.”を教えたらもっとわかってくるだろう。さらに、“I enjoy the cool of the evening.”と続けるのも手。ここだけの議論だけでも、英語の発想が見えてくると思うが。素人が思いつく手口でしかないが。 挨拶なら、言い方を覚えるより、人名の呼び方を教えることだ。普段の会話で、苗字で呼ばない理由を理解できて、始めて文化の違いがわかって来るものだ。William Jefferson Clintonが“Bill” と呼ばれることがわかれば、関心も深まるに違いなかろう。 さらに、なんでそうまで“I”で始めるのかに気付くことも重要だと思う。 夏目漱石時代の英語教育とは、実は、この辺りを教えていたのではないか。それが、実用性の名のもとに、暗記と文法ばかりになり、かえって実践性を失ってきたのではと睨んでいるのだが。 実用性としての世界共通のコミュニケーションツールとしての英語教育と、異文化理解のための英語教育を分別すれば、道は見えてくるのではなかろうか。 前者も後者も、グローバル経済の時代重要性は増す一方である。前者に関しては必要な人はお金を出してもスキル向上を図るが、後者はそう簡単ではない。そこを学んでおけば、この先、必ず大きな見返りが得られると思うのだが。 そんな教科書に変えたらどんなものだろう。 --- 参照 --- (イラスト) (C) School Icons CLUB >>> 教育の危機の目次へ>>> トップ頁へ>>> |
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