■■■ 「日本の樹木」出鱈目解説 2012.9.10 ■■■

   実が落ちて感慨無量にさせられる木

栗の話をしていて、クリの木、シイの木、ドングリの木は峻別されていると書いた。これは、見た目の話ではない。実を食べて初めてわかること。

クリは別格だが、生で食べることができるのがシイ。残りは外見だけ似ている木の実が生る、様々な木々をまとめたもの。それがドングリの木。ただ、学者を含めて、ドングリも立派な食材と主張される方も大勢いらっしゃるが、一寸水で晒す位ではエグさが残る厄介な代物で、忌避したくなって当然だから、そんな食材が主流をなすとはとうてい思えない。只、本気でドングリを集めれば、採取量が半端ではないだろうから、そこからデンプンを抽出したくなるのはわかる。時間はいくらでもある訳だし。それに、エグミ成分が少ないクヌギだけは処理が楽だから、例外的に扱われたかも。(従って、朝鮮半島のドングリとはもっぱらコレでは。)
もちろん、徹底的な灰汁抜きをすることで、ノスタルジー食を愉しむことは可能。そんな取り組みは色々あるようだが、まともにやれば手ばっかりかかる。はたして、それだけの労力に匹敵する価値を生み出しているのか、考えた方がよくないか。
そんな状況を考えると、ドングリという名称は、水晒し品を食べなくなってから後の名称で、古代はそんな呼び方をしなかったのではないかという気になってくる。ただ、このエグ味というか、渋みを体が未だに覚えているようで、タンニン味自体が嫌われている訳でもなさそう。そんな好みを持つ民族は滅多にいないようだから面白い。

それはともかく、シイはクリ同様、落ちた木の実をを食べることができる樹木ということで注目されてきたのは間違いなかろう。従って、「下(し)」「実(ひ)」と命名したと見なす説は妥当と評価したい。繰り返すが、下に落ちる実に注目する木としては、あくまでもシイであって、「団栗」を落とす木の名称ではないのだ。日本には、「団栗」を落とす樹木群をくくる概念は無かったのである。
早い話、日本では、クリとシイがあるから、ドングリにはほとんど惹かれなかったと見るべきということ。里山の懐かしさから、ドングリ愛好者は大勢存在するが、その辺りの感覚は古代とは相当違うのではないか。
英語名を見るとそうした感覚の違いがよくわかる。似ている点といえば、クリの扱い。ナッツを意識した名称であり、まさに別格。但し、シイはOakではなく、Chinquapin。このなかにはクリに似てイガに入っている実も含まれている。
 Oak: 「団栗」的な実をつける木の総称
 Sawtooth Oak: クヌギ(お椀でなくモジャモジャ台)
 Daimyo Oak: カシワ(同上)
 Chinese cork Oak: アベマキ(同上)
 Mongolian Oakの変種: コナラ、ミズナラ(典型的なドングリの木)
 Live Oak: カシ(これだけは、シイと同じで常緑樹。)
 Chestnut tree: クリ
 Horse Chestnut tree: トチ
 Beech: ブナ(実がクリのように複数個入っている。)
 Japanese Beech: イヌブナ(同上)
Oakとは、ドングリ林の樹木を指すと思われる。欧州の生活基盤は、麦畑と放牧のコンビネーション経済だが、森を焼いて野原にして飼うのは牛や羊で、ドングリ林にして飼うのは豚ということからして、納得いく分類である。ブナもドングリ類樹木と呼びたくはなるが、豚には冷涼な高地の植生の樹木だから一緒にならないということではなかろうか。

この対比でも想像がつくが、日本人には、シイの実にはかなりの思い入れがありそう。実際、それがよくわかるのは、昭和53年歌会始お題「母」の御製。子供時代の思い出というだけではなそそうな気がするのだが。
  母宮の ひろひたまへる まてばしひ 焼きていただけり 秋のみそのに

シイは、カシとよく一緒に生えている常緑樹。今でこそ、シイは、スダジイとして、そここで見かける樹木だが、氷期の頃はそれこそ絶滅寸前だった筈。伊豆、南紀、四国と九州の太平洋沿岸でどうにか生き延びる地を見つけたというのが実情だろう。そうした苦闘の歴史を共有してきた人達にとって、シイの実の味は格別だったに違いない。
ちなみに、現在でも朝鮮半島には、ほとんど無いようだ。南部に生えている場合は、日本からの持込の可能性大。一方、もともと朝鮮半島文化とは全く違っていたと思われる斉州島なら林くらいはありそうだが。
それはともかく、日本人にとっては、大切な思い出の木と言えそう。

そんなこともあり、シイの木の分類名称を、木の実を貝にみたてたとの説がある。常識的には、余りに無理な推測に映るが、その感覚はヨシとすべきだろう。
 スダジイはシタダミ。(沿海域に多い木ではある。尚、別称ナガジイ。)
 ツブラジイはツブ。(「円(ツブラ)」が常識的。尚、別称コジイ。)
 マテバシイはマテ。 (「待てばシイ」が常識的。尚、別称サツマジイ。)
ともあれ、どれも木の実を眺めて命名したのは間違いなかろう。ツブラは、実の形状を見ればその通りだが、スダジイとどれだけ違うか眺めてみると、多少小振りな印象しかない。都会生活者がコジイと呼びたくなるのは当たり前。
図鑑を見ると、この他のシイとしてはナガバシイノキ、オキナワジイがあがっている。実の標本を見ただけが、沖縄の実の大きさには驚く。正直の話、食べてみたくなる。もっとも、ヤンバルを守れという報道が騒がしかった時は、スダジイの森とされていた覚えがあるから、滅多に無い樹木なのかも知れぬがよくわからぬ。

どうして、「名称」に拘る話ばかりするのかって?
マテバシイは常緑樹ではあるものの、分類学上ではシイ類ではないらしいから。これぞ、歴史や実生活を無視する姿勢を貫く、自然科学の欠点とはいえまいか。何故、齟齬が生まれたのか指摘するなら価値があるが、この分類で考えよというご指摘に、小生はなんの有難味も感じないのだが。もちろん、実を乗せているお椀の表面は鱗状でコナラやクヌギそっくりで別なグループと言われればその通りなのは素人でもわかる。問題は、それが何を意味しているのかということ。


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