■■■ 「日本の樹木」出鱈目解説 2012.10.2 ■■■

   愛でる花の色が変わってしまった木

木の花といえば、古事記の木花之佐久夜毘売が頭に浮かぶ。桜の木の精と言われているが、何の証拠も無い。それに、本名が神阿多都比売だから、薩摩の阿多隼人族の女人シャーマン的存在だったのはほぼ間違いない訳で、その地域から考えると桜だった可能性はかなり低かろう。
ただ、ずっと前から、桜はダントツ人気だったから、そう解釈したくなるのは致し方ないところ。それなら、そのままそっとしておいたら、というのが日本流の対処の仕方かも。

ただ、そんな桜人気は古くからと言っても、古典の世界に足を踏み入れればそうも言えなくなってくる。
読んだ覚えがあるかも知れぬが、イの一番は梅。しかも紅梅だったりして。・・・
   木の花は、濃きも淡きも紅梅。  (枕草子37段冒頭)
現代とはだいぶ異なる感覚と言ってよいだろう。

よく知られているように、古事記には、梅の記載は皆無。従って、倭国では認知されていなかった可能性が高く、多分、遣隋使が頂戴してきたのだろうということになる。しかし、発掘でそれより古い梅の種が見つかったりするから、実際はそうではなかったようだ。
なにせ、万葉集は、梅の歌だらけなのだ。中国文化に浸ることがことのほか嬉しかったようである。思うに、中国からの使者が、梅が植わっているから、文化水準を満たしている国と認めたからではなかろうか。
もちろん、この場合の梅は、白梅。紅梅など見むきもされなかったか、滅多に見かけなかったのどちらか。

梅と言えば、菅原道真(845-903年)の歌になるが、先ずは、大伴旅人(665-731年)の歌を見ておく必要があろう。花の白さが強調されていることがよくわかるからだ。
 我が岡に 盛りに咲ける 梅の花
  残れる雪を まがへつるかも 
[#1640]
 我が園に 梅の花散る 久かたの
  天より雪の 流れ来るかも 
[#822]
素人からすれば、無粋ではあるが、いくらなんでも積もった雪を花と勘違いする訳もなかろうと感じてしまうし、花が散る様が降雪のようというのも、比喩的技巧としては面白いが、作品の完成度としてはどうなのかなと思ってしまう。春が待ち遠しいネという気分が出ていると言えなくもないが、流行歌というところではなかろうか。

この大宰帥大伴卿殿、代表作は「酒を讃むる歌十三首」と言えまいか。花よりお酒のお方とお見受けするからだが。もっとも、知的お遊びあってこそのお酒だが。折角だから、小生好みの歌を。
 この世にし 楽しくあらば 来む世には
  虫に鳥にも 我はなりなむ 
[#348]

もっとも、梅は個人的な感興もからんでいるようだ。年号が天平となり、大宰府から、冬に、佐保の自宅に戻って、梅を眺め、亡妻の想いが浮かんでしまい感極まってしまうのである。小さな白い梅の花からかすかに漂う香りこそが、このシーンには馴染むような気がする。
 我妹子が 植ゑし梅の木 見るごとに
  心咽せつつ 涙し流る 
[#453]

白い花が好かれていたのは、梅の親戚である李を詠んだ家持の作品からもわかる。
 我が園の 李の花か 庭に散る
  はだれのいまだ 残りてあるかも 
[家持 #4140]
杏の歌は万葉集には収載されていないが、梅と李が入っているのに、杏だけ渡来しないのは摩訶不思議。花が咲く時期も両者の中間だから、季節の花好きなら、是非にも引っ張ってきたくなりそうなもの。梅や李と雑種化し易いから、無視されたということかな。それとも、梅や李に似てはいるが、なんとなく花や実が気に食わなかったのだろうか。

ともあれ、梅への熱情はたいしたもの。なんといっても圧巻は、「太宰帥大伴の卿の宅に宴してよめる梅の花の歌三十二首」。(#815-846)皆して、梅を交えて歌を詠み合うだけのことだが、出席者の思い出に残るイベントというだけでなく、それを聞かされる人にとっても興がのるものであり、その当時の梅の威力は凄まじいものがある。
不思議なのは、ほとんどの記載は烏梅だが、なかに、宇米(#822,#837)と宇梅(#843,#845)の表記がある点。要するに、矢鱈に凝った作品が含まれている訳だ。・・・中国文化に傾倒しているなら、文字の「梅」の読みは当然ながら「メ(イ)」。しかし、「梅」を表意語とすれば、和語への読み替えにしても一向にかまわない筈。それをわざわざ「烏梅」としているのは、表音文字ですよということなのだろうが、なんとなくお楽しみの小細工臭い。そりゃ、烏と白梅を対比すれば白さは目立つだろう。
それでは余りに直接的な表現で余韻を感じさせないというなら、「宇米」ではどうだとなる。旅人クラスだと自由自在ということか。

ところが、その後、樹花を愛でるなら、中国文化の象徴のようなウメよりは、和の代表のサクラとの風潮が強まってしまう。
要するに、真っ白な梅花は今一歩となってしまったのである。当然、「烏梅」人気は地に落ちるので、表記は仮名書きで「ムメ」にしたりして。
そして、愛でるなら紅梅となった訳である。それが冒頭の清少納言の見立て。現代の園芸品種評で言うなら、従来は小さい一輪咲きの「米良」が美の究極だったのに、緋色八重の「鹿児島紅」が一番映えるゼと、アッという間に皆の好みが変わったようなもの。凄すぎ。
いかに紅梅色が大流行したかは、枕草子を読めばすぐわかる。・・・
   すさまじきもの 三四月の紅梅の衣。  (枕草子22段)
時期外れになっても着ている人が沢山出る位だったのである。

江戸の町になっても、梅人気の復活とまではいかなかったようである。名所と言っても、せいぜいが梅屋敷。(今は何も残っていない亀戸と僅かに趣向が残る向島百花園のこと。)あとは天神様(亀戸と湯島。)の境内に植わっている木か。桜人気と比べるべくもない。と言うか、梅の場合は、個人宅用で自分好みの園芸品種を愉しむようになったと考えるべきかも。変わった色も喜ばれたりして。
さて、そこで現代だが、好みはどう変わっていくのだろうか。俗説なら多様化だが。


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