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■■■ 「日本の樹木」出鱈目解説 2014.5.5 ■■■

端午の節句の由緒ある木

5月5日は端午の節句と呼ばれるが、午の日ということではないから、正式には「端五」なのだろう。
その日は、菖蒲湯や、粽・柏餅が定番だが、香気ある植物で邪気を取り除こうという気分から始まったものだろうとは、誰でもが感じること。ところが、屈原の自殺に関係する供物であるとの解説をよく見かける。

どうもよくわからないので、検索してみると、唐會要(961年)巻29に記載されている話のようだ。高宗が由来を尋ねたというのである。
  五月五日。元為何事。・・・
  屈原以五月五日投汨羅而死。楚人哀之。毎至此日。以竹筒貯米投水祭之。・・・
  可以樹葉塞筒。并五采絲縛之。

成程、「樹」の葉で塞いだお米を入れた竹筒が供養に使われた訳か。
この木の皮は駆虫剤として使われたそうだから、竹同様に、一切を清新にする効果があるということで用いられたに違いあるまい。

そんなことを知ると、流石、教養高き清少納言と納得。
  木のさまにくげなれど、(あふち)の花いとをかし。
  かれがれにさまことに咲きて、かならず五月五日にあふもをかし。
薄紫がかった花を好んでいたこともあったろうが、なんといっても「逢時の木」であることに、いたく感じ入ったということだろう。
しかも季節的には、清明と立夏の間の、穀雨節に当たるのである。春が終わって、夏来たりぬというところか。
  在二十四番花信風中、梅花風最早、花風最後。

しかし、どういう訳か、その後、「」が「」へと変わってしまう。そうなると、「いとをかし」どころではなくなる。
あふち[]の木」は獄門で刎ねた首を懸けるのに用いられることに。なんとも、大変化である。
  同廿三日、大臣殿父子[平宗盛・清宗]の御頸を、大炊御門河原にて、武士の手より請取て、大炊御門の大路を西へ渡して、左獄門の前のあふちの木にかけてけり、法皇、大炊御門東洞院に御車を立て御覧あり、三位以上の人の頸を、獄門の木にかくる先例なし、悪右衛門督信頼卿、さばかりの罪を犯したりしかば、頸をはねられたりしかども、頸を獄門の木にかけられず、大臣殿父子西国より入て、生ながら七条をひんがしへ渡され、東国より帰り上り給ては、死にて三条を西へ渡さる、生ての恥死ての恥、いづれもおとらずぞ見えける、 <平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十九>
  文覚懐より白布のふくろの持ならしたるが中に物を入たるを取出したれば、佐殿何やらんとあやし く思はれけるに、文覚申けるは、是こそ殿の父御下野殿[源義朝]の御首よ、去平治の乱の時、左のごくもんのあふちの木に懸られたりしが、ほどへて後はめもみかけず、木の下に落て有しを、是へ流さるべしとかねて聞たりし時に、年比見奉りし本意も有ぬ、世はとかうして有ものなれば、みづから殿に対面の事もあらば奉りてんと思ひて、獄所のしもべをすかして乞とりて、持経まぼりとて <平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十>
」は、クヌギの「櫟」と合わせ、「櫟散木」という荘子由来の四字熟語でよく知られているが、要するに、役に立たない木という意味だそうである。さらし首にして、無能な輩として蔑むにはこの木が最適となったのだろう。

そんなこととは全く無縁の如く、芭蕉は、1964年5月14日早朝に三島大社に参拝し、一句詠んでいる。神社の解説によれば、江戸に残した病妻の身を案じながらとの由。
  どむみりと あふちや雨の 花曇
確かに、「どむみり」という音は、色々と気に病むことが多い高齢者感覚濃厚な表現である。この「あふち」の漢字はどちらかなのかはわからない。
尚、近衛豫楽院家煕(1667-1736)の花木真寫では「」を用いている。

まあ、これですむなら良いのだが、そうは問屋が卸さない。「あふち」は季語としては残るが、一般的な樹木名称としては消滅してしまうのである。
こまったことに、新しい名前は「せんだん[栴檀]」。
樹木解説には必ず記載されているが、「栴檀は双葉より芳し」の樹木は「白檀」であり、香りなき木である「あふち」とは違うというのだ。まさに、ナンダカナ状態。
ただ、素人的には理由は自明である。白檀は彫刻材料として様々なものに使われたのだろうが、極めて高価だった筈。仏像用材が多かったか。「あふち」は、その代用材だったということだろう。
たまたま、「あふち」の実は数珠に使われており、「千珠(せんだま)」ということで、こちらも栴檀と呼ぶことになったのでは。お寺さんが用いた用語ではなかろうか。

ところで、文献類を見ていて気付いたのだが、スペイン語ではセンダンの木をParaísoと呼ぶ。いうまでもないが天国のこと。


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