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2002.5.4
 
 


低成長経済賛美派ばかり…

 日本経済低迷脱出を目指し苦闘する人々に、冷水を浴びせかける人達がいる。高度成長時代は終わったから、多少のマイナス成長を覚悟すべし、と主張する自称進歩派だ。これは、新たな産業を興そうとする動きを少しでも押し留めようとの、守旧派の巧妙な動きといえよう。

 彼等の論理は単純である。成熟社会で伸びを狙えば必ず無理が生じる。それよりは自然体で、多少の低迷も受け入れる方がよい、と言う。家庭生活の実感に訴える手法をとるから、この理屈に共感する人が増えている。「現状の生活レベルが概ね守れるなら、少々生活費を切り詰め、我慢すればよい」との小市民的意識をくすぐるのだ。そのため、賛同者が目立つようになった。

 家庭の収入がマイナス1%なら、確かに、このようなことは可能だ。しかし、全体主義の国家でなければ、国全体で同じことが成立する訳がない。マイナス1%とは、全員一律マイナス1%を意味しない。普通は、一番の弱者にマイナスが集中する。セーフティネットが無ければ、社会は大きく乱れかねない。今、日本経済はここまで来ている。

 同じような主張が公共事業問題でも幅を利かせている。

 無駄ばかりの公共事業は大幅カットせよ、との声があがっている。ここでも家庭生活の実感に訴える手法が採用されている。「山奥に道を造ってどうする」と、誰でもわかる指摘が多用される。しかし、地方経済は公共事業に依存しており、これが削られれば経済は一気に悪化する。仕事がなくなれば、職を求めて、多くの人が都会へ流入するだけのことだ。今まで、膨大な量の公共事業を地方に振ったからこそ、都会のスラム化を避けることができたのだ。地方への援助を止めれば、諸外国並の治安の悪い都会が出現することになろう。

 無駄を徹底的に省き、じっと我慢させる施策は、副作用がとてつもなく大きい。正論だが、こうした施策のコストは決して小さくはない。
 一方、この施策の経済効果は「風が吹けば桶屋が儲かる」といった話しでしかない。しかも、財政破綻回避の展望も曖昧模糊としたままだ。
 日本の為政者やオピニオン・リーダーは、こうしたつまらぬ施策の議論に明け暮れている。構造改革の美辞に酔っているのだろう。
 いつになったら新産業創出施策を考え始めるのだろうか。


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