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2006.6.5
 
 


イラン問題は新時代幕開けの象徴…

 “Iran Wants to Talk”(1)

 New York Times の2006年5月31日EDITORIALの見出しである。米国はイランとの対話をすぐに始めよとの主張だ。
 国交断絶が長いから、対話がそう簡単にできるとは思っていないだろうが、早くなんとかせよという訳だ。
 こうした声は日増しに高まっているようだ。
 流石に、Bush政権もこれに応えて動かざるを得まい。

 しかし、どう動こうと、解決は望み薄の感じがする。

 米国の姿勢ははっきりしているからだ。
 以下の2点については、Bush 政権でなくても、変えようがないだろう。
 - 印・パの核は認め、イスラエルの疑惑は不問とするが、イラン独自の核は認めない。
 - イラン現政権は選挙で選ばれてはいるが、世界の安全を脅かす危険な存在である。
 単純化すれば、偏狭なイデオロギー勢力に牛耳られている国に核を委ねるなど、言語道断ということだ。

 Bush 政権が嫌われるのは、今まで国際社会がまがいなりとも従ってきたルールを、ことごとく破って強行路線を敷いたからに過ぎない。
 - 安全保障のためなら予防的戦争を行なう。
 - 国連安保理による秩序に従う必要はない。
 - 必要なら表立った内政干渉も辞せず。
 ともかく、タブーは破られたのである。この先、Bush 政権がこの方針を変更したり、政権が変わったりしたところで、敵視されている国の米国に対する見方は変わりようがあるまい。

 従って、イランの宗教革命勢力から見れば、米国に対しては、徹底抗戦以外に道なし、となろう。

 そんな状況で、米国・イラン直接対話で打開を図れとの声があがっている訳だ。
 当然ながら、直接対話がプラスに働くかは、やってみなければわからない。交渉がまとまる可能性はゼロではないだろうが、根底の考え方が違うから、対立が深刻化する確率の方が高そうである。
 それに、直接交渉を宣伝材料にして、イランが反米運動活発化を図る可能性も無いとはいえない。そうなると、取り返しがつかなくなる危険性も秘めている。

 素人が、今後どうなるか予測したところで、たいした意味はない。

 それよりは、この問題を、大きな流れのなかで位置づける方が重要だと思う。

 そうすると、考えるべきことは、意外と単純なことに気付く。

 “The world is faced with the nightmarish prospect that nuclear weapons will become a standard part of national armament and wind up in terrorist hands.”(2)
 ・・・ということである。

 これは、キッシンジャーの文章。この小論では、北朝鮮にせよ、イランにせよ、核問題は多国間協議を続けるしか解決の道はないとの主張が展開されている。
 地域に核保有国を増やさないという点では合意がとれている。従って、イラン・北朝鮮の核問題を多国間協議で解決を図る方針は正しいというのである。
 例えば、中国は、朝鮮半島から日本へと核兵器が広がりかねない状況を嫌うから、北朝鮮の核兵器廃絶に動くとの理屈である。
 確かに、アルゼンチン、ブラジル、南アフリカ、リビヤ、と核兵器開発をあきらめた国はある。同じように解決できる可能性は無いとはいえない。

 そして、現実に、米・英・仏・独・露・中の外相会議で、イランへ提供する“incentive”パッケージの内容が固まり、受け入れられない場合は、国連安保理で次のステップに進むという合意もできた。(3)

 しかし、素人の目で見れば、解決するとは思えないのだが。

 イランは、昔から地域の覇権国家の地位を狙っている国である。そんな国が、核武装化をあきらめる筈があるまい。
 インドは核不拡散は不平等と言い放ち、公然と核武装化を図った。イランが同じように考えない理由は見つからない。
 そして、核保有国を増やさないことで合意した筈の国際社会も、パキスタンの核武装阻止には動かなかった。パキスタンが、インドに対抗し核保有を狙っているにもかかわず放置したのである。しかも、核実験に対して制裁的な動きをしたのは、米国と日本位ではないか。

 要するに、核武装化は止めることはできないのである。

 つまらぬ話を長々としているが、ここが肝要だ。

 イラン問題とは、核爆弾通常兵器時代の幕開きを象徴するだけの話かもしれないのである。
 どう見ても、世界は、核実験禁止・核廃絶とは逆の方向に進んできた。そして、今、その結節点を迎えつつある。

 イラン問題に注目が集まり忘れ去られているようだが、インド・パキスタン間の紛争を思い出すとよい。とりあえず、紛争は収まっているようだが、何も解決はしていない。

 どちらの国も、巨大な人口と、広大な国土を持つ。そのため、たとえ核攻撃で一都市が破壊されても、残った地域が生き残ればかまわぬと考える軍人がいてもおかしくない。報復を恐れず、先手必勝と主張する軍人の存在も否定できまい。

 かつて、四面楚歌状態の中国で、カリスマ指導者、毛沢東は米帝国主義は張子の虎と言い放った。核攻撃を受ければ何千万人もが犠牲になるだろうが、生き残った人民が戦い抜けば必ず勝てるとの、強烈な思想で国をまとめたのである。毛沢東は冒険主義者ではないから、言葉は挑発的だが、現実的には慎重な動きに徹した。お蔭で、戦争は避けることができた。

 しかし、この例が、パキスタンにも当てはまるかは、はなはだ疑問である。
 と言うのは、ここに火を放とうと考える輩が、工作でもすれば、両国の対立は手がつけられない状態に陥ってしまうからである。
 Musharraf-Aziz体制に、火を消す力があるとは思えないではないか。

 広島・長崎の惨禍の後、世界は、核兵器戦争を避けてきたが、これからはそうはいかないかもしれない。
 核兵器保有国を増やさないように、米露仏英中が核不拡散体制を敷いていた上、米ソの2大国がキューバ危機以後、核使用をタブー視したから、この状態が続いただけのことである。“古典”(4)の説の通りである。
 攻撃を加えれば、報復による壊滅的被害を受ける懸念があるから、抑止効果が生まれたということである。

 だが、これは、国民が戦場に住んでいない、大国同士の話。地域でのミニ紛争に巻き込まれている国家には当てはまるとは限らない。
 換言すれば、核不拡散や、核使用のタブーが霧散し始めたのである。
 そうなると、どんな社会に変わるのか、じっくり考える必要がありそうだ。

 最悪の場合、武器市場は一変する。

 今まで、平和追求という声の裏で、大国は武器輸出を図ってきた。それが冷徹な現実である。
 但し、武器と言っても、核兵器と長距離巡航・弾道ミサイルは入らないことになっていた。
 この例外が消え去ることになる。
 (もっとも、イラクのフセイン政権は何本もの弾道ミサイルをイスラエルに向け発射したから、タブーはとっくに破られていると言えないこともない。そんな危険な国を放置すべきでないとの論理が米国の思想でもある。)

 ミニ紛争に、とんでもない兵器が入り始める。ここは、テロやゲリラ戦の世界でもあるから、その矛先は、大国にも向かう。
 軍事独裁の大国にとっては、その程度なら、どうということもないだろうが、そうでない体制の国がこの変化に上手く対応できるとは限らない。民主主義の仕組みと、軍事体制は大きく揺さぶられることになろう。

 冷戦は終結したが、NATOや日米軍事同盟の役割は終わるどころの話ではないかも知れぬ。

 --- 参照 ---
(1) http://www.nytimes.com/2006/05/31/opinion/31wed1.html
(2) Henry A. Kissinger:“A Nuclear Test for Diplomacy”Washington Post [2006.5.16]
  http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/05/15/AR2006051501200.html
(3) N. FATHI & S. LEE MYERS;“Iran Won't Bow to Pressure on Incentives, Leader Says” New York Times [2005.6.2]
  http://www.nytimes.com/2006/06/03/world/middleeast/03iran.html?hp&ex=1149393600&en=8068514f4d8888f7&ei=5094&partner
(4) Thomas Schelling:“The Strategy of Conflict”1960年 [著者は2005年にノーベル賞受賞]
  http://cepa.newschool.edu/het/profiles/schelling.htm


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