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2013.8.7
 
 

仏教原理主義の勃興について…

ほぼ一ヶ月前のことだが、仏教聖地ブッダガヤで相次いで小規模な爆発が発生。警察によると、インドイスラム組織「インディアン・ムジャヒディン」による犯行の疑いありとのこと。早速、在チェンナイ日本国総領事館がインド政府はデリー,ムンバイ,ハイデラバード,チェンナイ,コルカタ,アーメダバード,バンガロール,プネーの8都市でテロ注意報を発出と注意喚起を呼びかけた。その後、とりあえずは鎮まった模様。

ご存知のようにブッダガヤには、スリランカ、バングラデッシュ、ミャンマー、タイ、ベトナム、ネパール、ブータン、チベット、中国、韓国、日本とアジア各国の仏教寺院が存在するような象徴的な地。いかにも、周到に計画されたデモンストレーションと言ってよいだろう。もちろん、テロではあるが。

日本での反応は、多分、「多神教」の仏教は他の宗教にも寛容な筈のに何故にというものでは。しかし、その見方は勘違いもはなはだしい。こんな時代にこまったもの。

歴史を学べば、仏教が民族的ナショナリズムと結びつくと、その排外主義は極端なものになることぐらい知っていよう。スリランカを見れば、それは過去の話ではなく、現実そのものということ位わからない訳でもなかろうに。結局のところ、独立武装闘争をおこなっていたヒンドゥー教徒主体のタミル人を事実上支配していた軍事独裁勢力「タミルの虎」が仏教徒のシンハラ人政府に完全に制圧された訳だが、その過程で、おそらく、10万人近くは殺戮されたのではなかろうか。
このような熾烈な対立に進んだ理由としては、2つあろう。
 ・海外勢力の無責任な積極的関与
   -インドの膨張主義(少数派ヒンドゥー教徒支援)
   -東西冷戦の持込(武器供与)
   -インド洋の真珠の首飾り戦略(海路覇権)
 ・スリランカ仏教指導者の国粋主義的扇動
もちろん、そもそもの元凶は、英国によるシンハラ人統治のためのインドからのタミル人移入。しかし、それを云々しても、時計の針は元には戻せない。
殺し合いを煽った一番の根源は多数派である仏教徒側の排ヒンドゥー教徒の動きと見るべきだろう。西欧に大ウケのセイロン仏教宗教指導者が、国内での排他的思想普及に力を注いだことがなににもまして大きいと思う。それに国内政治がのったにすぎない。仏教を国教化し、他民族・他言語抑圧政策を公然化したのだから、とんでもない対立が発生するのは最初からわかっていた話なのだから。少数派を優遇しながら、平和裏に過ごせば、十分豊かな生活ができる力があった国だが、政治的指導者はそんなことはどうでもよかったのである。これこそが寛容と称される仏教を国教とする国の現実。

ただ、どんな宗教でも同じ話。社会の近代化が始まれば、避けて通れない道。ここをしっかりおさえておく必要があろう。

従って、小生は、発展途上仏教国での社会的安定には、対外開放政策を採用する王政が一番と見る。もちろん上手くいく保証はゼロだが、宗教原理主義が勃興しても、柳のように受け流せる可能性がある点で他よりましというだけ。
一般には、民主化への道こそが、一番まともとされるが、それはただならないリスクを背負いこむことになる。普通選挙をおこなえば、必ず「仏教原理主義」が勃興してくるからだ。その結果、宗教政治化や排外主義化を招くことになる。民主化どころか、ただならぬ人権抑圧国家に生まれ変わることになりかねない。ここが肝。
もともと、社会全体を見れば、人権概念が通用するどころではない状況なのに、そこに理念と形式だけの民主主義を持ち込んでも機能する道理がないということ。経済発展に伴って、近代社会化へと進んでいるとはいえ、従来の生活風習が消滅している訳ではなく、それに伴う摩擦は末端では極めて大きく、精神的動揺が生まれている点を忘れるべきではない。その精神的空白感を埋めることができるのは宗教原理主義しかありえない。
経済のグローバル化はこの問題に対処できないと、えらいことになる。

問題はスリランカよりインドである。「ヒンドゥー原理主義」を政治がどう扱うかははっきりしている訳ではない。最大の政治勢力であるインド人民党とはどうみても、それが思想基盤。上層階級にとって、カースト制度を崩すような思想を容認などできる訳がないから、当然のこと。社会の実態としては、人権など無いも同然だが、それを変えようとのパトスがある筈がないから、間違って解釈しない方がよかろう。対外的に表立って人権否定政治を標榜する訳にはいかないから、そう見えないように気を遣っているにすぎない。社会の上層は欧米の考え方を知っている人達で形成されているのだから当たり前。
要するに、「宗教原理主義」と言っても、それは宗教ガチガチの信仰者集団というより、「伝統文化を護れ」理念が濃厚な集団ということ。ただ、経済的繁栄のための近代化に表立って反対はできないから、その世俗主義的姿勢を批判することになる。清貧の思想だったりする訳で、それを称える日本人は少なくない。現実が見えない人がことのほか多い国であることがよくわかる。
原理主義者の特徴は、「伝統文化を護れ」というスローガンの裏に、文化を壊す悪辣な「敵」がおり、これをなんとしても打倒せよとの理屈を金科玉条とする点。政治家から見れば、社会不安定化発生ということだから、わかり易くて、治安強化に好都合な「敵」を選んで、そのスローガンの元での政治を追求することになろう。

冒頭の、インドでの仏教聖地へのテロだが、その背景にはミャンマーでの対立があるとの解説が多い。そうなのかも知れぬ。
民政移管が始まったミャンマーでこうした紛争が発生するのは自然な流れだからだ。「仏教にしては」とのコメントをつけたがる人がいるが、繰り返すが、問題はそういうことではない。「ビルマ民主化」とは、必然的に社会の近代化を意味する。「民主的政権」と「海外開放政策」に向かえば、それは「伝統文化を護れ」の動きが出る訳で、必ず排他的な動きが始まる。これは避けようがない。
しつこいが、末端の社会的動揺に応えるのは、宗教原理主義しかないのである。マyンマーの場合、「敵」が少数のイスラム教徒になりつつありそうだというだけのこと。
かつては、そのような動きはセイロンのように、一国内での動きで留まって、海外は我関せずでいたが、グローバル化するとそれではすまなくなる。

日本の伝統である多神教的な発想で世界平和を語ろうと主張する人達の気持ちもわからないではないが、問題はそういうことではない。仏教だろうが、ヒンドゥーだろうが、はたまたアフリカのアニミズムだろうが、近代化の過程で原理主義は必然的に勃興してくる。そして、その流れに依存し、視野が狭い政治勢力が急激に立ち上がる。そして、社会の「伝統を護れ」ムードにのっかって「敵」を明確にし、民族・宗教・言語・文化の浄化を図ることになる。
特に、家父長制が色濃い社会では、この流れを止めるのは極めて難しい。
抑止力となるのは、政治的指導者の国際協調以外にはなさそうである。

クリントン前国務長官は、この辺りは百も承知だろう。ハイリスク覚悟で「民主化」を図ったとも言えそう。そりゃ、やってみなければ一歩も進まないのだから、なんとしても試してみようとなろう。よくも悪くも米国流。
確かに、開放経済化を促し、社会の近代化が進んでいけば、家父長社会が壊れていくし、独裁政治からの脱却もありえそうとは言える。
だが、その過程で、反近代の武装勢力が勃興するのも間違いないところ。民主化すれば、これを抑えるのは難しいどところが厄介な問題だらけ。デモンストレーションとしてのテロも増える一方だから、たまらん話である。
だが、そういう方針を否定する訳にもいかないのが現実。それなら、どうやって人権を護るのか、と問われれば、ともあれ「先送り」としか言いようがないからである。

(記事)
インド仏教聖地で爆発相次ぐ、2人負傷 2013.07.08 Mon 11:30 JST CNN
ミャンマー・ラカイン州を行く 仏教徒VSイスラム 続く衝突、消えぬ憎悪 2013.7.17 14:13 産経

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