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2015.7.18

2015MDGの感想

2015年は、Millennium Development Goals の最終年。果たしてどれほどの進捗状況なのか気になるところでは。もっとも、その割にコメントがでているようにも思えないが。次の進め方が決まりつつあるようだから、過去にはあまり視線が向かないのかも知れぬ。

国連官僚主導の仕事だろうから、見なくても、どうせ自画自賛型レポートと想像してしまうが、それでは余りに失礼というもの。
と言って、じっくり眺める気もしないので、紹介文章の斜め読みで感じたことを、素人発想で書いておこう。

以下がハイライト。・・・
 <貧困>大きく減った。
 <就学>初等教育普及は今迄で最大。
 <子供の死亡率>目立って減った。
 <安全な飲料水>アクセスが大きく拡大。
 <疾病[マラリア,AIDS,結核]>何百万人もの命を救った。

貧困撲滅は確かにかなり進んだ。それでもまだ12億人残っているそうだが。
言うまでもないが、それは、中国とインドがグローバル経済圏に入ったから。
しかし、今、こうした巨大新興国の経済成長が急速に鈍化しつつある。この先の貧困撲滅は簡単ではなかろう。
それに、21世紀に入り、僅かとはいえ貧困率が低下したと言われるサブサハラ地域だが、絶対数は未だ4億人と言われている。当然ながらずっと増加中。これを、限られた数の都市の経済的発展でカバーするのは不可能に近かろう。国際的枠組み構築ができる見込みはほとんどないし。

要するに、新興国が膨大な貧困人口の大幅減少に成功しただけ。この結果、世界的にみれば、アッパーミドル層が急激に厚みを増したことになろう。多様な文化的風土を作り上げる力を持つ人々が増えているのは、大いに結構なこと。
だが、これが先進国では頭が痛い問題を引き起こしている。都会以外では、その層が薄くなって来たからだ。不満が高まってくるのは間違いないが、生産性向上が望めない地域なのだから、どうにもならない。
この影響で、反グローバル勢力への支持が高まること必定。人口的には、そうした地域が少数という訳でもないから、下手をすれば、交易抑制に繋がる可能性もなきにしもあらず。そうなれば、全員沈没である。

地産地消を囃すのは、心情的にはわからないでもないが、それは一部でのみ成立する話。そんな流れを全面的に追求して、グローバル化を阻止しようというのは無理筋。援助でしか成り立たない、ブル下がり経済地域を増やすだけ。結局のところ分捕り合戦以上でも以下でもなく、最終的には貧困に陥るだけ。
ゼロサムゲームにしないためには、生産性の高い産業へと脱皮を繰り返す社会をつくるしかなく、そのためにはグローバル経済化は不可欠。
先進国では、その副作用を抑えながら、いかに早く新陳代謝を図るかが政策の決め手。新陳代謝抑制策は最悪である。日本は副作用低減のバラマキではなく、新陳代謝抑制のためのバラマキであり、質悪と見てよいだろう。与党も野党もこの観点では、ほとんどかわらないが、野党の方が大バラマキ推進派であり、より現状維持固執勢力と言えよう。

次は、就学率の向上。
識字率上昇も含め、就学率の向上を素晴らしいことと見なしがち。しかし、それは短絡的思考かも。危うい方向に向かっている可能性もあるからだ。初等教育で、常識的な倫理感が形成されるとの前提がなりたつとは限らないからである。はっきり言えば、児童のカルト化促進が進んでいないとも限らないのだ。
こうなったのは止むをえない点もある。植民地時代の就学率向上施策の反省から、西欧的倫理感教育が排除されがちだからだ。そのかわり、それぞれの地域に合わせた宗教教育や政治教育が徹底されている。コレ、喜ぶべきこととは思えないのである

特に、回教圏での学校増設の多くは、宗教原理主義国がスポンサーとなっている。その援助額も半端ではない。お蔭で、就学率が急上昇したとも言える。
当然ながら、初等教育での宗教教育は徹底したものとなる。回教国ならそれは当然とされるだろう。しかし、その学校に着任する教師が、どういった教育をするのか考えておく必要があろう。原理主義的教育が行われる可能性は高かろうし、それを防ぐ仕組みは皆無。

一般論だが、突然発足する初等教育とは、一種の社会革命を意味しており、どちらの方向に進ませようとしているのか注視する必要があろう。例えば、松本の開智学校とは、廃仏毀釈運動で完全に破壊した松本藩の寺を、ものの見事に変身させた建築物。この場合、結果がよかっただけで、そうなるとは限らない。

子供の死亡率に移ろう。
小生は、子供の状況をマクロの統計数字で見ても、たいした意味はないと考える。
中国のように、一人っ子政策を厳格に推進すれば、大事にされるから自動的に死亡率は極小化する。そこだけ見れば、素晴らしい数字が出て来る。但し、それが可能なのは、かつての日本の社会経済政策を真似することができる地域のみ。アジア圏は、古くから日本のビジネスマンが現地で苦労してきたから、働くことの重要性と、そこで得た余裕を子供に注ぎこむことの大切さは、すでに広く伝わっている筈だ。親が子供に投資する風土が出来上がっているということ。そのような状況なら、子供の健康維持方法を教育するだけで、間違いなく死亡率は激減する。
しかし、それが通用しない地域も少なくない。
特に、子供を貴重な労働力と見なしていれば、多産多死はいつまでも続く。なるべく早く労働力にしたいのだから、子供の生活環境も良くなるとも思えない。現実に、1億人近い幼児が飢餓状況にさらされているらしいし。この状態で、いくら食料援助に力を入れても効果は一過性。
両者を一括りして勘定する見方は意味が薄かろう。

さて、飲料水の課題だが、これは悩ましい。
と言うのは、衛生問題ではあるが、その本質は政治問題だと思うから。
飲料水問題に手をつけなかったのは、地域のボスがそれを阻んで来たからと言えなくもないからである。その場合、施設を造れば解決とはいかないかも。
そこを理解した上で、飲料水確保プロジェクトが増えるならよいのだが。つまり、一種の社会改革が進んでいる訳で、その波及効果は極めて大きなものになろう。
しかし、それは地域ボスにとっては、権力基盤を揺るがしかねない動きでもある。そう見なされれば、施設完成後、壊される可能性さえあろう。
発展性が無い地域とは、普通はそのような政治的風土が蔓延しているもの。
つまり、この手の活動は、政治活動と密接に絡む訳で、「水」という狭い範囲で考える訳にはいかない。おそらく、現場的には、それを百も承知で進めているプロジェクトだらけだろう。それを考えると、普及の数字評価より、社会改革にプラスに働く仕掛けとはどのようなものか、知見やノウハウを集積する方がずっと大切な気がする。

最後は疾病。
これは、個別に戦略を練らない限り上手くいくまい。成果もそれが奏功したかで見るべき。従って、素人には評価不能。
エボラ出血熱対策では、自前の中央集権体制維持を第一義とする官僚組織の欠点がもろにさらけ出されたが、(軍隊派遣依頼を躊躇。)どの疾病でも同じ問題を抱えているのは間違いあるまい。ただ、それがプラスに働くこともあるから、実際のところどうなのかは、外部評価がない限り誰にもわからないのでは。

それより、疾病プライオリティ検討の方が重要かも知れぬ。
重篤で治療方法が無い感染症がポツポツ出没しているからだ。パンデミックにならないまでも、その危惧の念が生まれれば、世界経済は一気に冷え込む。一旦、こうなると、他の疾病予防どころではなくなってしまうのでは。今迄のすべての努力は水の泡となりかねない。従って、重篤患者の数ではなく、世界経済の仕組みを防衛できるか否かを優先的に考えて欲しいもの。

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