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2015.8.7

現代中華帝国のチベット観について

傘壽記念で米国訪問中のダライ・ラマ法王とのインタビュー記事によれば、習近平総書記の御母堂は熱心な仏教徒だとか。夫である、習仲勲元副首相はダライ・ラマ法王との親しい関係もあって槍玉にあげられ監禁に繋がったと言われているから、そうかも知れぬという気もするが、若くして革命運動家として活躍ており、本当の話とも思えない。習斉心という名前から判断しているだけのような気もする。
それに、息子が、共産党主席としては珍しく、祖籍(故郷ではなく血族の祖霊の地)重視イメージを打ち出しているのも合点がいかぬ。いくらご都合主義と言っても、輪廻からの解脱を目指す仏教徒の家庭で育って、儒教の祖霊信仰を重視するとはとても思えないからだ。

要するに、ダライ・ラマ法王は共産党と会合が持てると大いに期待していることを示したかったのであろう。

しかし、小生は、毛沢東の中華帝国復活精神を受け継ぐ組織に、それは有りえないと見る。

古い書籍は改訂されていてトレースしにくいし、どこにどのように書いてかったか思い出す力はないが、ガイストとしてまとめることはできる。・・・

確か、スノーに対してだったと思うが、毛沢東は台湾はもともと中国では無いと言った筈。おそらく、日本が植民地にしていた未開の地イメージしかなかったのだと思う。そんなところを国民党政権が支配しても上手くいくまいと軽く考えていたのである。ところが、それは大ハズレ。
大陸より急速に発展し始める様子を見て、コリャあかん、となったのだろう。急遽、台湾解放が人民解放軍の使命化した訳である。

もちろん、他の民族地域はこれとは全く対応が違う。特にチベットは。
それを理解するために、他の民族をどう見ていたか書いておこう。

まず西のウイグル族。
ここは、スターリンの民族政策に倣った動き。優秀な民族主義者の一掃を図ったのである。ここではなかったかナ、指導者達が勢ぞろいして調印式に向かう飛行機が墜落したのは。それはどうでもよいが、西域は、中華帝国にとって古代から要衝の地。
昔からチュルク系民族が支配的。これをなんとしても、漢民族支配地に替える必要があった訳である。武力支配した上で、民族文化を囃し、指導的な民族主義者を浮かび上がらせてから、サラミ化という手が使われたに違いない。その上で、地域分断を図り、漢民族を入植するという形での統治が進んだ筈。
要するに、チュルク文化の政治的影響力をゼロにするために徹底した抑圧策が敷かれたということ。スターリンの教訓を生かしているから周到な展開だったに違いない。

モンゴルも同じようなものだが、こちらは、ソ連(スラブ帝国)共産党とのボス交渉で決まり。ソ連側モンゴル族地域、中国側モンゴル族地域、そして両者の間の干渉地域としてのモンゴル国という体制の取決めさえできれば楽勝。その昔、"元"に統治された時代を踏まえれば、この地域の3分割さえできれば、民族的動きを完全に封じ込めることが可能だからだ。もともと人口的にはそれほど大きくはないので、入植が進めば自動的に非モンゴル化完成である。
ただ、ロシアと中国とは扱いに違いが出ていると思われる。
おそらく、プーチン政権はモンゴル族の宗教指導者を厚遇し、スラブ帝国内に抱え込む作戦。
しかし、中国はそれはできない。この地域の宗教はチベット仏教だからだ。独立国モンゴルに対しても、ここらはかなり神経質に対応している筈。
毛沢東が恐れていたのはチベット仏教だからだ。それは当たり前の話で、非漢族(モンゴル族や満洲族)支配の中華帝国(元、金、遼、清)は、漢民族の力を削ぐために国教としてチベット仏教を採用することに吝かでなかったからである。皇帝がチベット仏教に帰依し、宗教的権威を得た瞬間、帝王として文化的強制力も身につけることが可能であることを実感していたからでもあろう。(例えば、満洲=文殊の世界ができあがるということ。)

チベットを恐れた点はまさにココ。
しかも、チベット高原は水源地帯でもあり、他の帝国に抑えでもされたら文字通り干上がりかねないのだ。
中華帝国実現には、チベット仏教の骨抜きと、その地の漢民族化は不可欠ということ。

それにしても、なにもそこまでしなくてもと言う人がいたりするのには驚く。
中華思想からすれば、許し難い地域でもあるから、極く自然な動きである。ここは理解しておく必要があろう。(清やそれ以前の王朝の、直接統治地区内での非公認宗教の布教活動弾圧に比べればたいしたものではない。歴史的にそういう風土。)

それに、中国共産党にとって厄介なのは、チベット王国の存立基盤が宗教のみであるという点。
そんな国家は、世界的にも珍しいのではなかろうか。と言ってもよくわからないか。

ここの社会は、毛沢東が指摘したように、働かない僧侶階層が肥大化している。(但し、贅沢をしている訳ではない。)それを支えるのが貧農だが、普通に言えば農奴である。しかし、武力で強制されているのではなく習い性で動いているのだ。それは、ほとんどの家が出家者を送り出すという仕組みが存在していたからでもあろう。高僧は人々のためにただただ祈り、その高僧を目指して修行するべく、それこそ山奥からも含め、数多くの児童が寺院に集まってくるのだ。
常識的には、経済的にとても成り立つ訳がない制度である。と言うのは、この地域は冷涼の上に乾燥しており、地味も悪いからだ。つまり、生産力は極めて低く、余剰は乏しいから、大勢の僧侶を養える訳が無い。
どう考えても、強大な王国の樹立など無理。ところが、中華帝国の隣国だったため、それが可能になったのである。

現代風に言えば、一つだけ圧倒的に強靭な輸出産業があったとなろうか。それは何かといえば、言うまでもないが、宗教である。チベット仏教を非漢民族に輸出したのである。
そんなことが可能だったのは、中国の隣国でありながら、唯一、中華文化を下等扱いしたから。実際、中国禅で拡がった茶の習慣以外、中国からはなにも取り入れていない。毛沢東が「遅れた農奴制度の国」と見なしたのは、ある意味、被差別感の裏返しである。毛沢東中国の貧農の生活実態と差などなかった訳で、その後、人民公社制度を導入し総スカンを喰うことになるのはご存知の通り。そして、大躍進政策で膨大な餓死者を出す羽目にまで。一方、"遅れた"農奴の国は、最低の生活だろうが、仏に帰依しており、死をおそれずに互いに助け合って我慢するから、そうはならないのである。

従って、毛沢東精神が受け継がれている限り、そして、チベット仏教が観光宗教化しない限り、中国共産党指導者が仏教指導者と同格で会合を持つなど有りえまい。

チベット亡命政府があるインドにしても、チベット仏教の保護に熱意がある筈もない。ヒンドゥー教のネパール王国とチベット仏教が国教のブータン王国の間にあったシッキム仏教王国を併合してしまった位なのだから。
チベット仏教は西欧社会のマイナーな宗教として歩むしかなさそうである。

(Source) Dalai Lama Gets Mischievous by Nicholas Kristof NYT JULY 16, 2015

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