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2004.10.28 
 
 


動物園は興業に徹すべし…

 動物園の経営に関して意見を述べたところ、一般のテーマパークと同じように見るのは間違い、とのご意見を頂いた。
  → 「動植物園/水族館の再考は不可欠」 (2004年2月15日)
  → 「遊べる動物園の意義」 (2004年8月20日)

 娯楽は役割の一部でしかなく、もっと高尚な役割を担っていることを忘れて欲しくない、と主張したいらしい。

 現実を直視すべきだと思う。

 動物園とは、動物を見世物にした興業である。それ以上ではない。
 〇〇動物園と、××アニマルパークや△△牧場との間の違いは、ほとんど無いと言ってよい。
 ・・・と言わざるを得ないのである。

 どうしてか、簡単に説明しておこう。

 一番の誤解は、稀少種保護を動物園が担っている、との主張だ。
 他に適当な組織がなければ、動物園がその役割を担うことはある。しかし、あくまでも例外である。都会の動物園が野生動物の保護活動を担える訳がないからだ。

 野生動物は生育環境が悪くなるから、生きていけなくなるのである。環境を考えながら、少なくなった動物を保護育成するのが種の保存活動である。当然ながら、生育している現地で、種の保存活動を行うべきである。都会の動物園が行う仕事ではあるまい。
 インドトラ(ベンガルトラ)の種の保存を図りたいなら、都会の檻の中ではなく、インドの現地で活動すべきである。
 オラウータンなら、日本ではなく、オラウータンの森に行けばよい。
 こんなことは、誰が考えても、極く当たり前の理屈だと思う。
 (植物園なら種の保存活動の意義があるが、動物園ではそうはならない。)

 従って、動物園の「種の保存」というのは、飼いならされた園内の動物の子孫をどう維持するか、という話にすぎない。野生動物の「種の保存」問題ではない。

 そもそも、動物園には、野生の猛獣などいない。飼いならされた様々な動物がいるだけである。なかには、芸まで仕込まれた動物までいる位だ。ほとんどペットか家畜状態である。
 野生動物を飼いならしているのに、野生動物を守る活動を担うというのは、自己矛盾以外のなにものでもなかろう。
 (飼いならした動物の生態を研究しても、野生動物研究には役に立たないと思う。)

 もしも、ペットや家畜ではないというのなら、野生動物である。野生動物を保護するつもりなら、即刻、捕獲した所に返すべきだろう。それをしたくないなら、種の保存どころか、公然と、野生動物を減らす活動をしている、と見なさざるを得まい。
 どちらを志向しているのか、はっきりして欲しいものだ。

 これだけでもわかると思うが、動物園の主張は手前勝手なものが多い。

 呆れるのは、様々な理由をつけて行う、動物と触れ合うイベントである。

 もちろん、観光や興業なら優れた仕掛である。
 子供が、犬、猫、うさぎ、山羊といった家畜/ペットとの触れ合いを楽しむのも悪いことではない。情操教育になることを否定する人などいまい。

 しかし、これを、「動物を理解する教育」とか、「動物保護運動」と語りながら、動物園の人達が率先して行ったなら、唾棄すべき行動と見なさざるを得まい。プロなら、悪気がなかった、で済まされるものではない。
 野生動物をペットと同じように扱ってかまわない、と誤解を与えるような教育をしているようなものだからである。野生種を見せる動物園は、ペットの飼い方を教えるべきではないのだ。

 野生動物には、餌を与えたり、勝手に手を触れてはいけないのである。野生の環境に戻れなくなるからである。この素人でもわかる原則を破るようなことを、野生動物の飼育のプロが行ってはならない。こんなことは、常識ではないのだろうか。

 圧巻は、特別講義といった類の、動物飼育を見せるツアーだ。

 これこそ、興業の最たるものだと思うが、「教育」と主張する人がいる。
 そのような人には、次ぎの質問に是非答えてもらいたい。
 “一般の人に、野生動物の飼い方を教育して、どうするつもりか?”

 こんなことをするから、野生動物飼育の方法を知り、家庭内でミニ動物園を作る喜びに浸る人がでてくるのではないのか。禁輸野生動物の輸入大国になってしまった元凶は、こんなところにあるもかもしれないのである。

 本当に、野生種の保護を進めたいなら、動物園とは単なる興業にすぎないことを、はっきり語るべきだと思う。
 そして、お金が稼げる興業に徹すべきだろう。そして、余裕ができたら、保護活動に寄付すればよい。


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