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観光業を考える 2005年4月14日
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衰退路線を走る桜の名所…

 突然思いたって、桜の名所、○○山へ行って来た。

 かつて、この山の中腹にある○○院○○苑に泊まったことがある。歴史を誇る桜の庭で有名な宿坊型旅館だ。その時、日本人なら、山を埋め尽くす数万本の桜を一度は見るべし、と言われてしまった。確かにそうだなと思い、機会を探っていた。

 ついに来たと上気して山に入ったが、正直のところがっかりした。

 花見客の混雑に懲りたという話ではない。
 山全体がさっぱり美しくなかったのである。

 ところどころに50本ほどの桜が咲いているといった印象だ。様々な宣伝写真で見かける、全山桜これ満開といった、素晴らしい景色は全く感じなかったのである。

 開花前の木が多かったせいもあろうが、花や蕾の数が極端に少ない木や、木肌に生気を欠く木が目立つ。なかには、枯れ木一歩手前としか言いようのない木さえある。
 桜の名所といった風情は感じなかったのである。

 ○○山の桜の林は衰退期に入ったようだ。

 そもそも、以前来た時、余りに杉が多いから、おかしいとは思った。杉や檜なら、事業を工夫すればなんとか林業が成り立つ。しかし、桜では食べることはできない。
 杉林に注力すれば、林業のプロフェッショナルが桜の林のメインテナンスに力を割けなくなる。

 桜の原生林など有り得ない。他の木に比べ寿命が短かい桜の林を維持するには、頻繁な植樹と伐採が不可欠なのだ。そのためには、膨大な人力が必要である。
 しかも、山桜のような品種は、もともと密集した植栽には向かない。無理して植えているのだから、大事に育てないと、すぐに弱体化してしまう。地面を踏み固められるだけでも弱ってしまうし、病気や虫にも弱いのだ。
 杉や檜より手間がかかるのである。
 プロの片手間仕事では、数万本もの木々はとても守りきれまい。

 おそらく、○○山では、数万本にのぼる桜の林に見合う維持費や木々を守る労働力の絶対量が相当不足している。

 専門家なら、このようなことは相当前から予想できた筈だ。にもかかわらず、この地域の観光業は、無理筋の林の「規模」をウリにした展開を続けてきたのである。
 京は醍醐寺の枝垂れ桜の雅感や、満開の都会のソメイヨシノの派手さの訴求に対して、全山一面の桜という規模で対抗した訳だ。

 早く、この路線から転換すべきだ。

 地域の産業が維持しかねる大規模投資は無理筋である。経済原則を無視すれば、必ず衰退が待っている。

 そもそも、規模など追求しなくても、○○山のイメージを工夫して使えば、集客力を発揮する方策などいくらでもある。どうして、山桜だけが持つ美しさを訴求したり、歴史を愉しむ工夫をしないのか疑問である。

 日本の観光業は、知恵で競争するのではなく、お金をつぎ込む競走がお好きなようだ。高度成長期の重厚長大産業の発想と同じである。社会が成熟化しているのに、こんなことを続けていれば、早晩行き詰るとは考えないのだろうか。
 家並みや、街路の飾りといったお金がかかる投資ではなく、新しい楽しみ方の開発にお金をかけない限りジリ貧必至だろう。

 ○○山の「桜」観光産業の方針は理解しがたい。

 しかし、観光業全体を見れば、極く普通の方針なのだ。

 (付記)
 桜を愛でるなら、花見酒などもってのほかとの意見を述べる文化人がいるが、勘違いしていると思う。
 古来から、花の美しさを謳う人が多いのは、桜の美しさに酔いしれるだけでなかろう。
 都会の公園の桜では、様々な食べ物の臭いが入り乱れるためよくわからないが、清涼な地域で満開の桜並木の中に入れば、花粉のほのかな匂いに気付く。
 そして、花弁が浮かんだ酒を静かに味わえば、生気に触れた気分になる。
 この感覚は、祖先から受け継いできた自然霊信仰の名残である。霊と共に酒を酌み交わすという古来からの伝統を受け継いでいると見ることができよう。


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