■■■■■ 2010.11.29 超日本語大研究 ■■■■■

 原始人の会話スタイルを捨てられないのが日本語。

 “美しき日本語を・・・”を云々する類の本は昔から沢山あるが、小生は読まないようにしている。対象読者が誰で、どんなシチュエーションでの話をとりあげたいのか、皆目見当がつかないないから。

 しかし、意外と言ってはなんだが、そんなことを言うと、何故そんな細かなことを気にするのかと驚く人がいるので、逆にこちらが驚いてしまう。
 小生は、日本人としてまともな生活を送りたいなら、少なくとも4種類の全く違う言い回しに習熟しなければならないと見ている。しかも、一般的には、話言葉と、書き言葉は全く違うものである。これだけ沢山あるのだから、一体、どの言葉を“美しく”したいのかね、と聞きたくなる訳である。

 はっきり言えば、美しくない日本語も生活上不可欠ということ。
 従って、日本語を十把一絡げにして、“美しい日本語”にしようと語るセンスにはとてもついていけないのだ。

 例をあげれば、頷かれる方もいるかも。

 日本橋の、とある静かな和食処での話。
 展覧会帰りとおぼしき、和服を召した中年女性4人組が入ったとしよう。席につくや否や、藝術の話は消え、四方山話で俄然盛り上がる。ところが、話の筋で、お稽古事の先生に連絡したくなり、携帯電話をかけたりする。その瞬間、会話のスピード、声のトーンが一変するのである。しかも、余計な単語が一挙に増え、丁寧語だらけ。だが、電話が終わると前の状態にすぐ戻る。
 お店の人も気がきくから、頃合を見計らって、お茶を出す。そのため、話が途切れたりする。その一瞬、すかさず一人が、低い声で「とりあえずビール」と一言。数秒の沈黙。そして、又、以前のように会話が続く。
 これは、あくまでも私的なお付き合いの食事でのシーン。この四人、実は、各自仕事を持っているのだ。そこでの話し方は又別である。数えると、都合4種類。
 まあ、どれも日本語会話ではある。しかし、それぞれに、基本構文と妥当とされる用語がある。常套句や俗語も。実は、これに精通していないとまともにおつきあいはできないのである。

 英国の政治家が、聴衆に会わせ、演説の発音を変えるのは良く知られている。階級社会だから当然だ。しかし、日本のこの複雑な仕組みは性格が違うのではないか。

 そう考えるのは、若者言葉の余りの特殊性。
 こちらも例をあげておこうか。

 小生にはさっぱり美味しくないラーメン屋だが、行列ができるほど有名なお店での、若い人の会話。
   男: 「これ ヤバうま」 ・・・ 女: 「マジかよ」

 聞くに堪えがたく、唸らされる手のお言葉である。特に女性がどういう意味で発言してるのか判然としない。男口調のようにも思えるし。だが、両者の間で共感らしきものがありそうなのである。こういう汚い言葉を止めろと叫ぶ人もいるようだが、これこそ日本語の特徴そのものだからどうにもなるまい。
 日本語の会話は、早く正確に情報を伝達することに重きがおかれない。最優先されるのは、会話の参加者が、場のルールと雰囲気を互いに認め合うこと。従って、参加して欲しくない人が嫌がる言葉やスタイルになりがち。そして、会話の肝は、あくまでも情感共有。部外者には言葉の意味さえわからぬ会話に熟達すべく格闘するのは習い性なのである。

 “ヤバイ”なる超お下品な凄い単語が出たついでに、その応用例を追加しておこうか。
   男: 「オー チョウやば」 ・・・ 女: 「うん なんか スゴやばジャン」

 これだけでは、どういうことか、さっぱり分るまい。
 それでは、状況説明があると変わるだろうか。青山の雑貨屋如きお店に置いてある、どうということもない帽子を巡っての会話だが、それがわかっても解決にはなるまい。言葉だけでは、彼等が商品をどう評価したのか推定さえできかねるのだ。だが、それで当人同士の意思疎通にはなんの問題もないのである。
 実は、この会話だけ取り上げるだけでも、日本語の一大特殊性が見えてくる。学者の書いた言語の本を読んでもさっぱり納得できないことが多いが、その理由もわかる筈。
 と言うことで、すこしづつご説明していこうか。

 今回はそのうちの一つ。・・・
   日本人は、会話を通じて、原始人のコミュニケーションの仕方をまもり続けてきた。

 こんなこをを言うと、トンデモ話と憤慨される方もいるかも知れぬが、残念ながら否定しがたい。
 「チョーやば」の意味ははっきりしておらず、受け取る側の意識でどうにでもなる。実に曖昧な表現だ。しかし、そんな話し方をするのは、話す側の心が揺れているとか、本心を隠したい訳ではない。相手の的確な反応を期待するが故のスタイルなのである。
 従って、話しかけられた方もその期待に応えた対処が必要となる。語るスピード、声の高さ、イントネーション、その他諸々の因子すべてに気を遣って、的確な返事を即座に考えるのである。この際、重要なのは、相手の反撥を呼ばないようにすること。失敗すれば、一瞬にして会話が壊れる。見かけは雑な会話だが、実態は、かなり高度なコミュニケーションなのである。

 なぜ、そうまでも会話に気を遣うかといえば、相手の気分を害したりすれば、身に危険が及ぶという意識があるからでは。それは、古代人の感覚そのもの。
 会話で不快感を与えたら、命を奪われて当然との社会規範があったかも。そうでなければ、言葉は命とか、言霊とという話が残る訳がなさそう。
 まあ、そこまでいかなくても、万葉集を読めばわかる筈である。意思疎通は原則歌であり、当意即妙の見本例がこれでもかと並ぶ。しかも、男女、年齢、階級、職業、貧富、出自民族といった壁を越えたコミュニケーションが可能という驚くべき言語なのだ。

 そんな社会では、相手を傷つけたりしないように注意して話すことになる。トラブルを避けたければ、言葉の意味も曖昧にならざるを得まい。そして、重視されるのは、情緒の共有。
 そんなことは、実は、皆さん清少納言に教わってご存知の筈。・・・「冬はつとめて。」という、文章とは呼びかねる表現だらけだが、これこそ一流の書き物と認め合った覚えがあるのではないかな。

 「政治家って ダサァー」とか、「なに アノおじ キモー」と、「春は曙。」は五十歩百歩。仲間意識があって、情緒を共有できなければ、「なんだかネ〜」なのである。
 これこそ日本語会話の本質。

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