■■■■■ 2010.12.6 超日本語大研究 ■■■■■

 白鵬関優勝インタビューを見て

 横綱白鵬関の、2010年九州場所での優勝インタビューを、じっくりと見入ってしまった。
 モンゴル国から来日したと言われても、にわかに信じがたいほどの流暢な日本語だからという訳でなく、その語り口がいかにも日本風だったからである。

 あ〜、これが普通の日本語会話なのだと、久方ぶりに感じさせられたと言ったらよいだろうか。
 そんな調子の会話を耳にしなくなってずいぶんたってしまった気がする。
 と言うのは、何を聞きたいのかさっぱりわからない「今日の取り組みはどうでしたか?」という質問が必ず投げかけられ、それに対して、力士は、何を伝えたいのかわからぬ答を返すという、時間潰しインタビューばかり聞かされ続けて来たからである。
 まあ、“「どんなお気持ちですか?」・・・「嬉しいです。」”という、決まり文句以外は聞きたくない人だらけということかも知れぬが。

 今回のインタビューはこの手のものとは全く違っていた。横綱の言葉には情感が溢れていたのである。心が通う言葉だったとでも言ったらよいかも。それこそ、ネイティブでないと言われても、にわかに信じがたいほど。
 抜群の、日本人的コミュニケーション能力をお持ちなのである。脱帽。

 話を聞けば、父親はモンゴル相撲チャンピオン。関取はその息子であり、祖国でもピカ一間違いなしの逸材だったことになる。にもかかわらず、敢えて来日。そして、日本の風土に溶け込み、今や先頭に立って、相撲の発展に尽力しているのだ。
 有難いこと。

 考えて見れば、日本はもともとこうした体質の国だった筈。
 頭抜けた能力を持つ渡来人を招請し、日本の風土に馴染んでもらいながら、その実力を遺憾なく発揮して頂くことで、新たな発展の礎を作ってきたのである。
 新たな血と智を海外から頂戴することで日本文化の活性化を常に図ってきたのは間違いないところ。それが混血民族の精神基盤なのかも。

 それはそれとして、モンゴル語と日本語の類似性には目を見張らされる。
 単語は一つとして類似性を感じさせないが、文体はそっくりだ。良く言われている例としては、こんな感じか。
   【日本語の原文】 彼-は ビール-を 飲み-ます。
   【蒙古語逐語訳】 彼 ビール-を 飲む-ます。

 他の主要言語で書いて見ると、随分と文体が違うことがわかる。
【独】Er trinkt Bier. 【蘭】Hij drinkt bier. 【英】He drinks beer. 【アイルランド】Se deochanna beoir
【葡】Ele bebe cerveja. 【西】El bebe cerveza. 【仏】Il boit de la biere. 【伊】Si beve birra.
 欧州だからという訳ではなく、アジアでも同じ。【トルコ】O icki bira. 【ベトナム】Ong uong bia. 【インドネシア】Dia minum bir. 【タガログ】Siya inumin beer.【漢語】他喝酒。
 モンゴル国ではキリル文字が使われていることでもわかるように、ビールの単語として露語が通用するが、文体は異なる。【露】Он пьет пиво.

  要するに、  よく言われる、SVO v.s.SOVの違い。それと、上記の文章ではよくわらないが、単語の語尾変化様式の違い。単語が全く変化し無い孤立語(漢語)、様々な条件で語尾が複雑に変わる屈折語(欧州語系)、テニヲハや文章上の位置を示すための語尾詞を単語の語幹にくっ付ける膠着語(日本語、モンゴル語、等)の3分類では同一語族に入るということ。

 一見、もっともらしい分類で、納得しがち。しかし、白鵬関の話を聞いていると、こんな見方では、本質的な違いは何も見えてこないことに気付かされる。
 言葉は、あくまでも、コミュニケーションの道具。その視点で、普段見慣れている日本でのインタビューを考えてみるとよい。どう見ても、情報を伝えることに重点がおかれてはいない。狙いはあくまでも情緒の共有。
 そんな風土の社会だとしたら、そもそも、S、V、Oによる文体構成的な考え方が馴染むとは思えまい。S無しの方がしっくりくるし、VやOの順番にしたところで、どうでもよいのでは。「行くゾ。お相撲を見に。」が好まれる訳で、この意味が“Let us”なのか、“I will”かは、場面による。要するに、矢鱈、状況依存性が高い言語なのである。
 それが故、そのまま書き言葉にすると、第三者にはさっぱりわからなくなりかねない。そこで、とりあえず据わりがよいSOVになっているに過ぎないのでは。従って、SOV語の系統を一括りにしてよいか、はなはだ疑問。

 ただ、日本語もモンゴル語も、テニヲハ型膠着語用法に神経質な位こだわる点では、同一なのは間違いない。しかし、それは語源とか、語族の話とは無縁なのではないか。
 アジア独特の要因が存在するからである。それは、中華思想の根幹たる「孤立語」の漢語の存在。巨大国家を無視することは不可能だが、漢語を受け入れたくないとしたら、孤立語に語尾をつけることで自立するしかあるまい。中華帝国の周囲に膠着語を話す民族が多いのは素人からすれば当たり前の話。
 モンゴル語が日本語の源流と同じであろうとなかろうと、漢語単語を使わざるを得ないのだから、膠着語法を磨き込まざるを得ないのである。
(日本の場合、漢語でない音節文字のカタカナ/ひらがなを使用して膠着語文法を完成させたのは平安時代。モンゴルはチンギスハーンの時代に文字を使い始めた頃だろう。朝鮮半島のハングルは素音文字らしいが、これを使い始めたのはそのずっと後のようだ。)

 要するに、言語を考える際に重要なのは、文法や単語ではないということ。
 コミュニケーションスタイルありき。

 経典文化一色に染まった地域の言語分析を、非経典文化の地域に当てはめるやり方には無理がありすぎる。主語無し文章が当たり前で、単語に性や複数等による峻別概念も無い世界を、経典文化の視点で分析したところで、本質が見えてくる訳がなかろう。

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