〜 義務教育で叩きこまれる文法は今一歩の代物では。 〜
義務教育で習った日本語の文法は納得のいかぬ点だらけだったが、疑問を押し潰し、ただただ丸暗記した覚えがある。そうでもしなければ、試験で零点になるのだから致し方ない。そんなことをついつい思い出してしまった。
ここのところ、他の言語を調べているからである。
そんなことをしていると日本語の特徴が見えてくる。ところが、習った文法では、それがさっぱり見えない。どこかおかしい。美しい日本語をと言う前に、文法を改定すべきではないのか。
調べてみると、学校文法(橋本進吉文法)以外にも、山田孝雄文法、時枝誠記文法、松下大三郎文法といくらでもありそうだ。根本思想からして違う文法もありそうだし、鋭い指摘も少なくない。こうした成果を少しは取り入れたらよさそうなものだ、
と言うことで、素人の文法論を書きたくなった。
先ず、義務教育で叩き込まれる文法を自分流に解釈してみようか。・・・
【学校文法の要点】
・文章は、“単語”からなる一塊の文節を並べて作成
-基本文節は、主語と述語の2つ 残りは4種類
-他の文節を説明する文節が、修飾語
-文章や文節をつなげるのが、接続語
-他の文節とは無関係なものがあり、これが独立語
-意味を持たない語彙類は、付属語---上記の(自立)語の後に付けて文節形成
・主語となる単語は、活用が無い「名詞/代名詞」
・述語となる単語は、活用が有る3種類だけ
-「動詞」・・・・・基本語彙の語尾はウ段の音
-「形容詞」・・・・基本語彙の語尾はイ
-「形容動詞」・・・基本語彙の語尾はダ
・修飾語の品詞は活用が無く、主語用は「連体詞」、述語用は「副詞」
・接続語として使うのが「接続詞」
・独立語は、呼びかけ言葉も含まれる「感動詞」
・付属語は、活用するのが「助動詞」、活用が無いのが「助詞」
この文法の一大欠陥は、主語-述語という文章構造を前提にしている点。日本語はSVOでなく、SOVという見方は間違ってはいないが、それを意識させるような説明は誤解を生むだけである。日本語の構文上の特徴は、SやOをことさら意識しない点と、その順番がどうでもよい点にある。従って、これがわかる文法に変えていく必要があろう。
それこそ、「Aへ、Bから、Cを、Dで、Eと、持っていく。」という、主語なしのダラダラした文章がありえるのだ。この場合、A〜Eの順番は話し手の意志で勝手に決めてよい。論理的な構造にしたければ、それでもよいし、バラバラしていてもどうということはない。要するに、A〜Eは述語部分の説明にすぎないということ。この文章の核はあくまでも「持っていく。」という述語。これを修飾(内容説明)する文節はすべて前にくるというルールがあるだけのこと。
主語は欠落しているのではない。入れたければ、「私が」あるいは、「彼が」を入れてもよい。もちろん、挿入箇所はどこでもかまわない。主語を入れると、SOV構造になることが多いが、OSV構造になることもある。英語のような、構文発想で考えてはいけないのである。
〜 述語の説明を中心にした文法が望ましい。 〜
こう考えると、述語の文節をどう扱うかが、日本語文法の肝ということになる。学校文法はその観点では、頭を混乱させかねない。と言うか、整理の仕方がいかにも恣意的で、現実の言葉に合わせていない感じだ。
“熟考する”と“じっくり考える”という言い回しに大きな意味違いはないのだから、それを踏まえて、述語をわかり易く分類すべきだと思う。動詞や形容詞の変化形ばかり教え込む文法は止めて欲しいものだ。「静かだ」や、「イライラする」といった、よく使う述語表現を簡単明瞭に説明できないものは願い下げ。
少なくとも、述語の核となっている品詞の分類を大きく変える必要があろう。学校文法にこだわらないなら、すでに様々な分類が提案済みだし、それらを一寸眺めれば素人でも整理したくなってくる。
ご参考に作ってみようか。
・存在動詞 (生物用→“いる”、無生物用→“ある”)---犬がいる。 犬の首輪がある。
・状況動詞 (be動詞的; “だ”、“である”)---犬は動物だ。犬小屋が静かだ。
・付属動詞
-「他の品詞+“する”、“なる”」---犬をナデナデする。犬が静かになる
-「動詞+“みる”」---犬に触ってみる。
・動作動詞 一般の動詞---犬が走る。
このように考える場合は、“走る”犬、“走り”といった使い方は、動詞の活用と見るより、形容詞や名詞に転化した用法と考えた方がすっきりするだろう。形容詞の扱いも変えたらわかり易くなるかも。名詞を修飾する言葉にするとすっきりするからだ。
犬は可愛い。→犬は可愛い動物だ。
もちろん、“可愛さ”は名詞。“静かだ”も「名詞+だ(動詞)」ということ。「形容動詞」や「助動詞」を峻別するのを止めるだけで日本語の特徴が見えるようになってくる。
〜 代名詞の本質がわかるような文法に変えることが、始めの一歩。 〜
以上、非学校文法の要点を読んで刺激をうけた、素人考え。
ただ、こんな考え方をしたくなるのは、学校文法の指示代名詞や人称代名詞の定義が余りにも現実離れしているからだ。と言っても、それが上記とどう繋がるのかわからないか。その理屈はご想像におまかせするとして、指示代名詞こと、「コソアド言葉」の問題点について簡単に記しておこう。
学校文法で指示代名詞をとのように教え込まれたか忘れてしまったが、この品詞は重視されていなかった気がする。英語のthisとthatや、hereとthereと同様なものというイメージしか残っていないからでもある。距離感で選ぶ代名詞とされている訳だ。コソアドは、それぞれ、近傍、中位、遠傍、不定の場所に当たることになる。
これは明らかに間違いである。日本語を外来語に代えてしまおうとの意図があると批判されても致し方なかろう。
日本語は、場の言語である。書き言葉では、文脈から読み取る能力が必要だし、会話では、主語無し言葉が多く、意味を取り違えたりしないように注意を払う必要がある。指示代名詞は、そうした特徴の象徴的存在。
特別視すべき品詞と言えよう。指示代名詞という用語は捨て去るべきである。
そう言えば、何を言いたいかご想像がつくのでは。指し示す対象は物理的な距離感ではなく、会話の当事者間の心理的距離を示すということ。
・“コ”は話し手の領域
・“ソ”は聞き手の領域
・“ア”あるいは“か”は両者共通の領域
・“ド”はわからない領域
「アレ(アソコの家)が拙宅です。」とは言うが、「ソレ(ソコの家)が拙宅です。」とは言わないのが伝統的日本語。拙宅は相手の領域の事物ではないからだ。今や、コレが崩されつつある。そんな文法は早急に止めて欲しいものだ。
このことでもおわかりになると思うが、「I=私」として、“私”を人称代名詞と見なす考え方もどうかと思う。日本語では、この手の人称代名詞を主語として使うことは滅多にないからだ。話し手と聞き手が設定されている状態で、主語を示す必要があろう筈がない。“私”は、“俺様”や“拙者”と同類の語彙でしかなく、一般名詞扱いが妥当。
“彼”にしたところで、“カレ”であり、“アレ”とか“アイツ”の同類と考えることもできよう。
〜 “が”や“は”といった主語を示す助詞の意味も見直す必要がありそうだ。 〜
指示代名詞の意味をこのように理解すると、主語を表す助詞の文法も変えたくなる。
上記の例文でもわかる通り、主語となる名詞を示す時は、“が”か“は”をつける。両者の使い分けのルールがあるのは明らかだが、学校文法でそれをわかり易く教えてもらった覚えがない。“が”と“は”が付くと、主語としての位置付けになると覚えさせられ、これを“格助詞”と呼ぶというに過ぎない。
しかし、ご存知のように、主語ではない使い方も少なくない。
犬は嫌いだ。・・・主語は話手たる“私”
お手ができる。・・・主語は“この犬”
繰り返すが、日本語は述語ありき言語。「主語」が特別扱いされることはない。省略されることが多いが、それは面倒だからではなかろう。主語-目的語-述語という構文や、補語という概念はもともと持っていないということ。
たまたま、そのような構文になることはあるが、表現上不可欠な訳ではない。と言うか、主語を、聞き手は余り気にしていないということ。伝えたいのは全体状況であり、細かなことはどうでもよいのだ。
文章を成立させるために、意味なし主語を使うような言語とは根本原理が違うのである。
上記の文章にしても、前者は「犬なんだがね、(実は)嫌いなのだよ。」と伝えたいだけだろうし、後者は「お手と言う芸を、(見せることが)できるぜ。」と言いたいのでは。“この犬が芸をすることができる”と、“この犬に芸をさせることができる”が渾然一体になっている表現なのだとも言えよう。文章構造ばかり気にかけている人にとっては、主語が何かは重大だろうが、全体状況を伝えたい人にしてみれば主語はどうでもよい話。
“は”や“が”は、話題の“主”を示すために名詞の語尾につけたと考えれば、どうということはない。