今回取り上げるのは、「襲いかかる聖書」という書名の本。
岩波書店発刊だから、書評だらけと思うが、小生は気にも留めていなかった本である。と言うのは、亡くなった著者の作品を詰め込んだ、二番煎じ本と見なしたから。
ただ、たまたま見かけたので、ついついこの本を手にとってしまった。どんな作品を選択したのか目次を見ようと考えたのである。しかし、本を開く前に表紙の絵を見て驚いた。そこに署名があったから。
“1951.1 K.Ogawa 死の谷”
この絵だが、暗黒に血の色がしたたるような空に、黄色の太陽、赤色の月が浮かぶ。その色に照らされた屹立した崖の下には、燃える炎のような谷。青や緑の色は、普通は、けなげに生きる心地を表現するものだが、ここでは、試練に耐え抜く力を感じさせる冷徹感を生み出している。
ダビデの谷の小川流モチーフだろうか。・・・
“死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。”
ともあれ、インパクトを与える絵だ。
と言うことで、絵と関係する話もあるかも知れないので、読んでおくのも悪くなかろうという気になった訳である。
≫小川国夫: 「襲いかかる聖書」 岩波書店 2010年9月
中味は3つだが、主体は小説「明るい体」。(「世界」1985年1月号掲載)
読むなら、ここからがよい。
ついでだから、無粋だが、小説の内容をご説明しておこうか。
一行紹介なら、「生涯人に見せることができない“聖なる傷”を負う主人公 加代子のモノローグがいくつかのパートに分かれた作品」となるか。ただ、これではなにも分らない。
主人公以外の主な登場人物は二人。一人目は兄の野末仙太郎で、鳳雛と呼ばれながら期待に沿う気が全くない人物。二人目は、兄妹の“知り合い”三次さん。読みだした途端、結末は想像できるが、三次さんは白骨化死体で発見される。そして、そのお葬式で、兄は、三上の犠牲を感じ入り、身が軽くなるが、加代子は、自分の心を見透かされていたことを知り、体の芯から竦む。まあ、筋はどうでもよいのだが、この三人と宣教者の信仰感覚を肌で感じることができる作品といったところか。
もちろん、小川国夫お得意の、駿河湾のとある地でのお話。
主題は、タイトルでおわかりのように、光に照らされ、その光が瞳孔を通り、体が明るくなった、加代子の原体験。兄は、“眼が明るいっていうのは 真理が見えたってこと”と言うが、それも理解しての上。
このような小説を読むと、創作の原点を知りたくなるかも。
そんな気分に陥ったなら、ゴーギャン、ゴッホとの対話を主とする、埴谷雄高との往復書簡「幻視者の手紙」と序の「芥川の聖書」へと読み進むとよかろう。小川国夫が、どのように空想力を働かせ、聖書のヴィジョンを文学作品に昇華させたのか、わかった気になるかも。
そして、最後に、冒頭からの5頁分に目を通そう。自伝的な「聖書と私」である。
そこから引用させて頂こうか。・・・
“実証を求める態度で聖書を読んでいくと、
いくつも気が付くことがでてきます。”
例えば、終末論。
“まくし立てるイエスは、憐れみ深い忍従の人ではなく、
幽鬼のような姿を現すのです。
十字架の道行きをする彼も同様です。
気高く弱々しい救世主というのは虚像でしょう。
少なくとも記述とは合致しません。
えたいの知れない恐ろしさを感じさせる、
いわば、血にまみれた超人であったでしょう。”
従って、ヨハネ黙示録を読んだりすると、聖書が突如襲ってくる訳である。・・・成る程、そういう意味でつけられた書名なのか。
編者(勝呂奏)に脱帽。