先日、義経千本桜(渡海屋・大物浦の段、道行初音の段)を見てきた。実は、"生"は初めて。
文楽自体は、衛星放送で時々見たりしているし、ご紹介教育ビデオをどこかで見せられた覚えもあり、馴染みが薄いという訳ではない。それだからこそ、国立劇場まで足を運ぶ気がおきなかったと言った方が正直なところ。
しかし、一度は現物を見たいと考えていて、ついに実現といったところ。
百聞は一見にしかずという言葉があるが、まさにその一言がピッタリだった。
どうしてそんなことがおきるのか考えてみたが、素人向けの"観賞の仕方"なる教育が悪影響を及ぼしているのではないか。西洋的視点でしか音楽に接していない人でもわかるように説明してくれるから、かえってその良さが感じられなくなる気がする。要は、質の良い出し物を眺めることでは。
なんと言っても心に響いたのは、安徳帝をめぐるやりとりと知盛入水の場面。驚いたのは、声が人形からでてくる感じがしたこと。
これは、演奏家がその場でかけあうジャズ的なパフォーマンスということでもある。同じ譜面で、同じ人が語っても、採音すると毎回微妙に違うことがありえそう。熟達した人であればあるほど、そうなる類の音楽なのでは。
どうしてそうなるのか考えようとしたが、その必要がないほど当たり前のことかも。これは、言葉の音楽だからだ。メロディーやハーモニーを重視する西洋の歌とは無縁の世界。声の色と、息使いで、心情を表現していると言ったらよいだろうか。
当然ながら、キャスト(人形)のその場の状況に合わせて当意即妙に発声しているに違いなく、それこそが出来不出来の分水嶺なのだと思う。
そんなことを感じると、"拍"が果たす役割の大きさに、自動的に気付かされることになる。日本語のすべての音は、「母音のみ」か、「子音+母音」なので、単語を話したらそこには必ず"拍"が生まれるのだから当然と言えば当然なのだが。
普段なにげなく使う五七五だが、これはどうも和感覚はほど遠いしろもの。機械的な575なら、それは西洋のリズムそのものと考えた方がよさそう。習合好きな日本人的感覚から、そうなったのかも。
和なら、8拍だろうが、3泊だろうが、かまわないのである。重要なのは、数ではなく、"拍"感覚。1拍の長さは、場における精神的切迫感で決まるもので、1小節の時間的長さがほぼ固定される西洋音楽とは考え方が根本的に違う訳だ。拍子が始終変わる、現代音楽的に似たところがある。従って、その良さは、すぐにはわかるまい。と言うか、聴きなれないと、"拍"があることに気付かない可能性があろう。
ただ、誰でもわかるのが三味線が示す"拍"である。これが場の雰囲気を盛り上げ、その調子に乗って声が"拍"を継いでいく訳だ。この感覚はテレビでは湧いたことがないが、その原因はよくわからない。
もう一つ"生"でわかったことがある。
三味線合奏だが、なんとなく微妙な音のずれが入っているような感じがしていたからだ。つねづね気になっていたが、耳がよい訳ではないのでたいして気にもともないでいたが、会場で聴いてなんとなく納得感。どうも、熟達したプロの技のようである。
音に立体感をつけているのかも。オーケストラのように、音を完璧に揃えることに注力したのではつまらぬ演奏になってしまうのだろう。