オーストラリアでは、都会に住み着いたオウムやインコが、どういう訳か人の言葉をしゃべっているそうだ。互いに言葉を教えあったのだろうか。鳥はコミュニケーションのために、言葉を使っていることになる。
ヒトにしても、ペットの鳥達と一緒にされて育てられると、囀りと羽ばたきでしかコミュニケーションがとれなくなってしまうようだ。明らかに乳児への刷り込み現象だが、“Mowgli syndrome”の一種とされている。
残酷な仕打ちだが、当の母親には乳児虐待感覚は皆無とか。
だが、こうした言葉の刷り込み現象は決して珍しいものではない。
国家社会主義や宗教原理主義が主導するコミュニティでは、教条的言葉が刷り込まれていない人の方が少数派だからだ。それは極端な例だが、自分の頭で考えず、金科玉条の如く単純な「正義」をふりかざすことに酔いしれてしまう人は少なくない。そんな人達は、他の意見を耳にしても、すべてが非常識な発言に聞こえる訳で、議論ができなくなる訳だ。危険なことこの上なし。
結局のところ、怪物集団に上手く操られかねないからだ。
それが、悲惨な過去の歴史から得られる、貴重な教訓とは言えまいか。もっとも、そんな遠まわしの言い方では、かえってわかりにくいか。
ご参考に、わかり易いから、「戦争反対」を例にとってご説明しておこう。
有名なのは、帝国主義戦争に反対し、人民革命をと言う主張。ご存知のように、これは、独裁政権樹立を目指す前衛党が打ち出したテーゼ。これでおわかりになると思うが、「戦争反対」で共通していても、その意味は色々。立場を明らかにしない「戦争反対」の主張には意味がないのである。と言うよりは、自分の立場を隠した反権力運動の台詞であると考えた方が当たっていることが多い。従って、それがどんな結果をもたらすか、よく考えておく必要があろう。
どうも、日本人は、「正義のスローガンを叫ぶ」だけの運動が孕む「危険な罠」に無頓着なようだ。
イスラム教徒の女性に対する、公共の場所でのブブカ着用禁止を聞いて、宗教弾圧は許せないと語る人など、その典型といえよう。言うまでもないが、誰が考えたところで、その側面は否定できない。しかし、信教の自由維持のためには、着用禁止が最善策ではというのが議論の肝である。こんな施策はファシズムなどと言い出したら、この議論はできなくなる。しかし、日本には、その手の人が五万といる。
西欧社会が衝撃を受けたことなど目に入らないのである。ご存知のように、戒律に従わず、自ら恋人を選んだ娘を親が焼き殺したのだ。そのような非道を許さずということから生まれたのがブブカ着用禁止。「戒律強制を許さず」という象徴的施策と言えよう。これこそ政治。
日本の自称ノンポリの正義感は摩訶不思議。悪辣なことが行われていても、何も手を打つなという訳だ。それで、一体、どうやって人権を守ろうと言うのだろう。
原発反対論者もこれと同じような状況に陥らないことを願うばかり。
これは国家としての安全保障問題である。政治的にどう考えるかが問われているとも言えよう。もし、「正義のスローガンを叫ぶ」だけの人ばかりになってしまえば、議論どころではなくなる。危険なことこの上なし。
(ref.)
Malcolm Holland: "Birds of the bush talk of the town" Herald Sun September 13, 2011
http://www.heraldsun.com.au/lifestyle/the-other-side/birds-of-the-bush-talk-of-the-town/story-e6frfhk6-1226136195468
Hannah Price: "Birds of a feather talk together" Australian Geographic September 12, 2011
http://www.australiangeographic.com.au/journal/Parrots-and-other-wild-birds-able-to-talk.htm
Lucy Cockcroft: "Russian 'bird-boy' discovered in aviary" The Teligraph, 28 Feb 2008