■■■■■ 2011.12.15 ■■■■■

 ビジョン論議ができない風土を打破したいもの

ついに全球的な地殻変動が始まったようである。ビジョンなき国家には実につらい時代というか、まかり間違えば奈落の底も有りえそう。
もちろん、それは企業組織にも言えること。

もっとも、ビジョン構築を叫ぶ人は昔から多い。従って、いい加減なものなら、できていると言ってもよいかも。しかし、今のご時世、そんなものがビジョンの役割を果たせるとは思えまい。
先ずは、この先一体どうなるのか、まともに考えることから始める必要があるのでは。

ところが、その兆しは皆無。
日本のメディアの記事や解説を見ていると、見出しは華やかでも、内容を読む限りそんな感じはしないからだ。
しかし、それはメディアの責任という訳ではなく、日本社会の風土を反映しているだけの話。

まあ、昔から、自らの知恵で将来ビジョンを描けない体質との指摘は少なくなかった。それだけのこととも言えが、今や、そうは言っていられない情勢では。

と言うことで、一寸、考えてみることにした。

コレ、その気になると結構難しいことがわかる。「風土」とか「体質」と簡単に言うが、一様では無いからだ。どう見ても、3つのキメラ状態。混ぜてしまうと、何がなんだかわからなくなる。

(1) 「惰性」思考
細かく現況を探った、当座の地位変動を扱った論説に関心が集中する。実践主義に立てば、当然と言えば当然の姿勢。
だが、問題は、長期的な流れの読みというか、漠然としたお話にほどんど気をかけない点。一所懸命にこの先の流れを読もうと努力はしているが、残念ながら、ミクロな視点から脱していない。成り行きベースの見通しを越えられないのだ。
具体的なデータや、主要プレーヤーの動き、新情報ばかり気にかけ、「大局観」が欠落しているということ。ところが、当の本人はそうは思っていない。
スパコン論議など典型。ギネスブック的争いでないなら、長期的に何を狙っているのか、異なる技術の流れをどう見ているのか、と言った全体像を簡単に解説して欲しいもの。政局談義のような、トップ獲得秘話を示唆するコメントが含まれた記事は見かけるのだが。

(2) 「単純」主義、あるいは、思考停止
まともに頭を使っている人なら、単純な原則論しか述べない人と議論するのは時間の無駄と考えるだろう。ところが、ここ日本では、そんな無駄が横行。平和、エコ、環境保全、ボランティア活動といった類の用語だけを信奉する熱狂的な擬似宗教グループが盛況。これらの言葉は、なにがなんでも「善」との思想。一方、 「悪」は金儲け。まさに反科学主義運動の鑑そのもの。議論封殺好きで閉鎖的組織だらけの国らしい流れ。
放射能汚染論議など典型。防除と言いながら、その実は汚染範囲拡大。コストに関係なく汚染物質除去する方針を是とするなど、論理もなにもあったものではない。この状況を批判したりすれば、原理主義者から鉄槌を浴びること必定。

(3) 「情緒的」な社会変質論でのお遊び好き
目を引く事件があると、それを自分の食い扶持である専門分野の現象に結び付ける専門家が大勢控えている。たいていは、抑圧層の問題顕在化として扱うだけのこと。ほとんど証拠らしい証拠は無いが、こうした主張はウケル。
抑圧層のプロテスト表現としての音楽や美術を単なる流行として輸入する社会ならではの特徴かも。こうした解説は文字好き人種には実に楽しいお話なのである。
銃乱射事件解説など典型。欧米社会の病根を暴くという手の話は山のよう。秋葉原事件とオウム真理教のクーデター狙いのテロとの区別もできない、幼稚な論説もあるらしい。歴史をまともに学んでいれば、殺人数が劇的に減った時代に入ったのは自明。しかし、昔からの殺人習慣が消え去ることはない。その行動分析など、専門家内で議論してくれれば結構である。我々の社会にとって重要なのは、政治的テロ防止。しかし、こちらを対象にすれば、情緒的な解説では総スカンの憂き目確実。従って、こちらは、話のタネにはならないのである。

こうした風土であることを踏まえると、まずとりかかるべきは、「惰性」思考からの脱却ではないか。これは、簡単ではないが、難しいというほどでもなさそう。

例えば、国際情勢をじっくり考えたいのなら、読むべきものを読めばよいだけのことかも。
残念ながら、日本のメディアでその類の論考やインタビュー記事を見つけるのは困難だが、海外紙・誌なら沢山ある。そんなものに目を通すだけでも、かなり改善されるのでは。
要は、巨視的な漠然とした話のものを読めばよいだけのこと。聞きなれない文章が引用されていることが多いので、その意味をすぐに理解できないことも少なくないが、世界の流れをどう見ているかはわかる筈。
「惰性」が心地よいのだから、おそらく、読んだところで目から鱗は無理。しかし、ステレオタイプ化している自分自身の脳みそに気付くだけでも、大いなる価値があろう。

早い話、哲学者や歴史学者が登場している記事をお勧めしているだけのこと。
間違ってはこまるが、日本で人気の、歴史モノ的解説をお勧めしている訳ではない。逆である。日本の話は、ほとんどが面白類推論考でしかなく、それは「情緒的」発想そのもの。もともと、歴史観など身についていないのに、そんなものを読んだところで、大局観が生まれる訳がない。もっとも、そうは思わない人だらけなのだが。


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