■■■■■ 2012.1.4 ■■■■■

 新年のご挨拶がわりの一言、「無駄を残そう」

効率一辺倒の生活が楽しい人は別だが、豊かな生活を目指すなら無駄は必要である。それは経済成長の観点での必要悪という意味ではない。無駄なことができるからこそ、心が豊かになるし、それが社会発展の原動力になるということ。

扉の留め金に、50円の汎用部品を使えば、丈夫で長持ち、しかも使い易い。しかし、そこに5,000円の手作り金具を用いることもできる。後者は、いずれ不具合に遭遇する可能性が高いし、その時、部品交換が可能とは限らない。それに、ちょっと見ただけでは、どちらを使っているのか判別できないのである。常識では、そんなことまでして、なんの意味があるのか理解できまい。
しかし、敢えて、そうした無駄が嬉しい時もあるもの。コレ、身近な実話である。
ご想像がおつきになるかと思うが、素人の茶室造りでのワンシーン。茶室を持つこと自体が贅沢といえばその通りともいえるかも知れぬが、お大臣の生活を送っている方ではない。要するに、人それぞれというにすぎない。

エコだとか、色々な思想を振り撒く人がいるが、生活スタイルは色々。価値観など千差万別。なにが無駄で、環境に良いかは、各人の自分勝手な理屈を捏ね回した結果にすぎない。そのマクロな結果として、どうかというのは、全体を見回さなければ判る筈がないのである。
ただ、世の中は、そう思っていない人だらけ。多くは、自説以外、全く聞き耳をたてない原理主義者達。こまったものだが、一種の信仰でもあり、我慢するしかないのが実情。
しかし、我慢が過ぎると、社会は流行の信仰一色と化し、自由もなにもあったものではない状況に陥ってしまう。ここら辺りは、よくお考えになった方がよいのでは。そんな社会にならぬよう、長い時間と労力を投じて、学ぶ習慣を身に着けてきたのだし。

無駄をなくし、せいせいした生活という発想など、その観点では、新興宗教と大差無しという気がする。なにが、無駄か否か、普段の生活で明確に判断できる人はほとんどいないのだから。

間違ってはこまるが、企業のなかでの無駄を無くす運動の話をしている訳ではない。この場合は、課題が一致しているから、論理も明瞭。理屈を超越している信仰とは無縁な地平での話で何の問題もない。但し、課題が曖昧で、どうにでも解釈できる公務員型の仕事には適用できかねるが。
そして、忘れてはならないのは、イノベーティブな企業では、無駄を徹底的に省いている一方で、傍目には非効率的に見える無駄な仕事も抱えている点。気になることは徹底して追及するのである。そこから新しいものが見えてくることが多いことを身をもって経験しているからだ。そう、無為に無駄を重ねている訳ではなく、そこになにか隠れた宝があるという直観に支えられているから、無駄と言われかねない仕事に注力できるのである。
単純に無駄を切るだけでは、浅知恵のモノ真似でしかないと考えている訳。

家庭生活でも同じことが言えるのでは。


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