インドは仏教発祥の地なので大いに親近感を覚えると語る方が少なくないようだ。
うーむ。
友好ムードは悪くないとはいえ、誤解が入り混じっていそうで気になる。
この調子では、政治・経済に関しても現実を見据えないで、ムードが先走ってしまいかねず心配。過度な期待は外れるもの。それだけならよいが、それが怒りに変わりかねないから厄介だ。
この国は経済好調なら中国からの製品輸入が急増して貿易赤字が嵩む。経済成長にはインフラ投資が不可欠だが、当然のこととして外資だのみにならざるを得ない。発展途上国の経済運営は難しいのは当たり前だが、それにしても不安定すぎる。
ただ、英語圏なので、優秀な人達を活用できるから、一部の産業は確かに急成長している。その流れに乗っている人の数は少なくないが、生憎とこの国の人口は巨大で、大部分は土地制度に縛られている下層農民。大多数の人々には全く無縁な産業が勃興しているにすぎない。そもそも、カースト制度と表裏一体の職業家督制度が厳然としてそびえているから、労働力は名目上豊富でも、労働者化させるのは簡単なことではないのだ。小売市場開放も一筋縄でいくようなものではなかろう。
多大な困難が見てとれる国ということだけは承知しておく必要があろう。
ついでながら、宗教についても、冷静に眺めた方がよいと思う。特に、インド仏教の見方。
以下2点、常識的な見方を記載したつもりだが、流布イメージとは違うかも。ご注意のほど。
(1) インドの仏教は、潜在的には反権力の宗教だと思う。
統計数字は知らないが、仏教徒はおそらく極く少数とされていると思う。しかし、潜在的シェアは数割といえそう。
そんないい加減なことを、インドをろくに知らない輩が断言すれば呆れるかも。しかし、それこそがインド観察の肝。
と言うことで、先ずは、ド素人の解説から。ご説明が少々ゴタつくが、ご容赦願って、・・・。
インドはご存知のように身分・職業制度の国。誕生の瞬間、社会における地位や役割が決まっており、そこから抜け出るには海外の自由世界に移住するしかない。ただ、極く例外的に、都市圏の一部の職種では見かけ上の自由採用が行われてはいるが。
開放経済へと歩を進めてはいるが、この状況はおそらく今後も変わらない。
人口の大半は都市ではなく、農村だからだ。そこでは、中国や日本とは違い、古くからの土地制度が厳然として存在している。革命なしでこの状況が変わることは考えられない。
インドは普通選挙制度の国であり、名目的には世俗主義政治。ただ、西欧的な民主主義が社会に浸透している訳ではない。真逆と言ってさしつかえあるまい。誤解を恐れず言えば、身分・職業制度を改めるつもりは全く無いのである。それが国是というより、不可能だからだ、大多数の人々が信仰しているヒンズー教が身分・職業制度と表裏一体だからだ。
言うまでもないが、イスラム教やキリスト教は教義上、そんな社会制度を認める訳にはいかない。しかし、対立を回避し、信者を獲得するには、黙認する以外に手はなかろう。と言うか、その問題を堀りおこすと、分離独立運動に宗教対立を利用されるから致し方ないといったところ。
しかしながら、表立って、身分・職業制度を完全に否定する宗教勢力も存在する。3つ考えるとわかり易い。
理屈から言えば、それは、イスラム教やキリスト教の原理主義者。しかし、そのような勢力はほとんど力が無いのでは。両宗教ともに、その信者はヒンズー教からの改宗者であり、原理主義的なムードが高まってヒンズー教徒と対立することを一番嫌う人達だと思われるからだ。イスラム原理主義者のテロを外国の陰謀と断じる政府の指摘は一理あると言えよう。
従って、目立つ勢力は、少数信者の宗教。数が少ないので、ヒンズー教徒の海のなかで、離島のように生活することが容認されてきた勢力である。政治・経済・文化上では力を持っている上、そうした制度の完璧な否定論者だが、ヒンズー教社会の変革に手をつけることは無さそうだから、容認されてきたのだと思われる。それに、対外的に、民主主義国家の風情を醸しだすには、こうした人達の存在は欠かせないし。
それに加えて、もう一つの宗教。それが仏教。ただ、こちらはわかりにくい。
釈迦の教えは、身分・職業制度を越えよというもの。その教えが広まり、インドで一時代を築いたが、結局のところは社会から駆逐され、ヒンズー教に戻ってしまったのである。従って、仏教は、この制度を肯定する訳にはいくまい。ヒンズー教と正面から対立しかねない唯一の宗教ということ。
アナロジーで言えば、ローマ帝国のキリスト教信者は奴隷から広がったように、現在の仏教信者の大半は最下層となろう。いわゆる、不可触賤民と呼ばれる人達である。この身分で生まれれば、将来になんの期待も持てない。これに答える宗教は、来世に期待するタイプ。仏教への改宗が進んでおかしくない。
インドの仏教とはそういう立場。日本の仏教とは根本的に違う。
(2) 日本の仏教はヒンズー教に近い。
日本の仏教は、鎮護国家の役割を果たすことから始まったが、土着信仰に染まってしまった。そのため、身分・職業制度と表裏一体化しているヒンズー教の信仰スタイルとそっくり。
バリ島で遊んだ方なら直感的にわかると思うが、ヒンズー教では、身近な場所、それこそ至るところに、神や精霊が存在し、ヒトと同居しているのである。日本仏教も同じようなもの。仏性が至るところに存在すると考えるからだ。
しかも、身分・職業制度と表裏一体化しているヒンズー教同様、「血族」や連綿と続く「家業」と日本仏教は切ってもも切れない紐帯を有している。そう、それがわかるのが葬式仏教のシーン。すべての死霊は家の祖先と一緒になって、仏となり、子孫を護ってくれるのだ。従って、専門家による法要は欠かせないのである。これなくしては心穏やかに暮らせないからこそ、日本人は仏教徒と自称していると言っても過言ではなかろう。日本のお寺のお墓とは個人の埋葬地ではななく、身分・職業制度の象徴なのである。
従って、日本の仏教徒は来世のために現世を生きるとの感覚は薄いのでは。仏のご加護で現世を精一杯生きるとなりそう。来世は過去の人達とご一緒させて頂き、子孫繁栄を見守るという思想。ヒンズー教徒同様に、現世主義と見なされて当然である。
インド仏教にそんな思想があるのだろうか。現世では希望が持てないが、来世は生まれ変わって新しい社会で生きようという希望を持つといった信仰では。日本の仏教とは正反対な感じがするが如何なものか。
大陸と島国という、全く異なる風土にもかかわらず、日本仏教とヒンズー教がよく似ているのは不思議である。土着意識が強くて、狭い地域や組織で安定的に生活を続けることを愛する人が多いと、こうなるということかも知れぬが。
ところで、ついでにちょっと調べてみて面白かったのは、ヒンズー教にも天ッ神と国ッ神が同居している点。前者は司祭者集団が依拠する経典に登場する神々で、後者は土着神話を集大成した叙事詩に登場する神々。暗記モノの歴史授業では、ヴェーダとラーマーヤナという言葉は覚え込まされるが、それがどういうことかは今のいままで知らなかった。
これでおわかりのように、小生も、インドに関する常識を欠いている輩の一人である。