■■■■■ 2012.2.14 ■■■■■

 日本はガラパゴス的風情を追求する国と言えそう

ガラパゴス化と言えばケータイ分野となるが、実際は様々な分野で似たことがおきている。
そんなことを言うと、MOディスクやMD音楽プレーヤーの話と勘違いされそうだが、そういう話とは次元が違う。そもそも、大半の日本人の基本姿勢が「ガラパゴス社会でかまわぬ」ではなかろうか、という話。
皆が食べていけるなら、面倒なことになるべく係わり合いにならず、自分達で処理できる範囲で生活して行きたいと考えていそうな感じがするのだが、どうかな?
換言すれば、鎖国体制でも一向にかまわぬゼとなりかねない社会ということ。間違えてはこまるが、コレ、相手国の理不尽さへの憤慨からくる保護主義とは違う。ゴタついたり、喧嘩するなどご免被りたいというだけ。下手をすると、交流に消極的と勘違いされかねない態度であり、外交交渉に向かない体質なのは明らか。

・・・このように考えると、「自給自足」は日本人の琴線に触れる言葉なのではあるまいか。今回のテーマはコレ。

もちろん、「自給自足」とか、「鎖国」的経済というのは、建前で、実態は管理貿易を行ない、外の状況の監視を怠らず、進んでいる技術は取り入れるという、ご都合主義なのだが、それが一番平穏な社会をもたらす手と見ているのである。

実は、そんな気になったのは、ハンチントンが、ほとんど理由を述べることができないにもかかわらず、日本を世界文明の一つと位置付けたからである。文明間の抗争というとってつけたような胡散臭い主張にとって、このパートは不必要だと思うが、切る訳にはいかなかったと見える。
そう、確かに、日本だけは他の文明と様相を異にしているのだ。その特徴とは、土着主義。普通は、そんな国が存在感を示すことはありえない。日本は例外なのだ。と言うか、日本はまさしくガラパゴス。進化論的発想なら、そんな古代の文化が先進国に生き残っている筈がなく、まさに奇跡。

そんな感覚がおわかりいただけると、日本で語られる「常識」に、おかしな点があることに気づくと思う。
そのような2つの例をあげ、そのご説明で日本がガラパゴス化してしまう理由の説明にかえさせて頂こう。

(1) 日本人を農耕民族と見なすのは適切ではない
よく耳にする話を書いてみようか。・・・日本人はコメを食べる民族であり、肉食人種の狩猟民族とは体質が違う。稲を細やかな心遣いで育てあげる農耕民族だから、モノ作りも得意なのだ。
コレ、誤解を誘発するための手の作り話と考えた方がよい。
欧州は確かに牧畜が欠かせない。しかし、本質的には麦食人種であり、肉食ではない筈。肉食とは、ミルクの生産手段を潰すことになるから、そんな体質が初めから身についていることなどありえまい。農耕が盛んになったからこそ、余裕が生まれて肉食化したのである。
逆に、日本人の方が肉食が組み込まれていた可能性が高い。森は田畑の隣にあるのが普通だから、農耕の合間に狩を行い、野生の動物を食べていたと見るべきだろう。なにせ、森の産物を沢山利用していたのは間違いないのだから。
まあ、ここら辺りはどうでもよい話。
一番の問題は、日本人を農耕民族と呼ぶセンス。日本型稲作の特徴は労働集約型だから、そう考え勝ちだが、それは勝手な決めつけ。海外と比較すれば、日本の特徴は、様々な食材を利用した食としか思えないからだ。日本の稲作は、他の食材調達を並行してできる点に特徴があったと見るべきである。
つまり、典型的な農耕民族とは言いがたいのだ。
代表的な農耕民族が携わる農業とは、農地を大規模に開墾し、灌漑施設を作り、多くの農奴を組織的に働かす仕組みが備わったもの。それが始まったのは1万年も前。おわかりだと思うが、このシステムなら、農民は土着である必要は無く、労働力をどこからか引っ張ってくれば十分である。
このやり方を日本に当てはめるのは難しい。地域毎に環境条件が大きく変わるので、細かな対応無しには生産性があがらないからだ。しかも、稲作以外の食材調達スキルも、地場を知り尽くしていないとさっぱり上達しない。従って、日本では、土着農民体制にならざるを得ない。
この場合、常識的には、土着部族による、低生産性の小規模農業体制になってしまう。
ところが、日本の場合、一点だけが違ったのである。自律的な工夫を積み上げると共に、地域の組織的協力体制を構築することで、飛躍的な生産性向上を実現したのである。農奴制を基盤とする大規模農業をしのぐほどだったから、中華帝国に組み入れられることもなく、朝鮮半島を巡る角逐に参加できる力を持てた訳である。

(2) 日本は単一民族国家ではないが、それこそがアイデンティティなのでは。
日本人は血筋的には間違いなく雑種。しかし、それは、原住民層、初期移民層、支配移民層が存在し、その混血もといったよくある植民地型の人種構成を意味しない。と言うか、こうした人種的位置付けを表に出さないことを暗黙のルールとしている国なのである。
よく知られているように、日本は、百済、新羅、宋などから、多くの移民を迎え入れてきた国である。しかも、たいていは上層の難民だったから、その文化的影響はそのまま現代にまで引き継がれている。なにせ、漢字の読み方さえ3種類ある位なのだから。歴史以前も、おそらく、様々なところから移民が訪れていたに違いないのである。日本には移住先としての魅力があったからである。
ただ、何時の時代も、移民の受け入れにあたっては条件が付随していたようである。一つは日本語を喜んで話す姿勢。もう一つは、母国を宗主国とするような策動をしないこと。それさえ遵守するなら、支配層に食い込むこともできたし、尊敬される一族として生きていくこともできたのは間違いなさそう。したがって、移民自身がその気になりさえすれば、時間はかかるが、日本人として社会に溶け込んでしまうことになる。その結果、混血化してしまい、人種で分けることができなくなってしまう。
そんなことをふと思ったのは、日本国籍を取得したドナルド・キーン氏がTV番組に登場した時のこと。氏の立ち振るまいと顔つきから、ボーと視聴していただけの小生は始め他の日本人と勘違いしてしまった。発言を聞いて、氏であることに気付いた位。日本人らしさとは、生物学的な形質上の種とは全く違う次元だと思い知らされた一瞬だった。
もちろん、朝鮮半島から強制的に労働移住させられた人や、原住民たるアイヌ民族が存在するから、日本国は単一民族国家ではないのだが、もともと日本民族は曖昧な概念である。アイヌ民族や昔の朝鮮半島の人達の血はすでに日本人のなかに入っていると考えるべきだからだ。

ただ、注意すべきは、日本語をしゃべりたい、日本社会に溶け込みたい、の2つの要件を満たすためには、どこかの地域での「土着」化を決意する必要がある点。自己主張を抑え、地域の人々のための行動を最優先し一緒に生きることになる。
日本の場合、こうして作られた地域の「絆」感を、ごく自然に日本民族観にすり変えることが可能なのである。その役割を担っているのが日本の宗教。天皇制であり、神道であり、仏教なのであり、不可分。
従って、海外からの脅威を感じない限り、特別な国家観は不要というか、邪魔モノに近い。
そんな国家は滅多になかろう。

(註)
 ・これは以下の続き。
  「2012.2.13 日本のビジョンを考える上での注意事項」
 ・人種、民族、文化、宗教、身分制等が入り乱れるインドと似た点がある。
  「2012.2.3 インドの宗教を誤解していないか」
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