■■■■■ 2012.3.11 ■■■■■

 ボケ予防の哲学

右脳・左脳の違いを考えて頭を使ったり、手作業に集中すると、発想が豊かになるし、頭脳の衰えも遅らせることができるとの話を耳にすることが多い。
そんな考えのせいか、定年後に、それほど好きでもないのに、ピアノを習いに行ったりする人が増えているそうだ。一方、ボケ予防には麻雀との声も。およそ健康的とは思えない所業だが、頭を使うからお勧めだとか。
小生は、コノ手の理屈はピント外れと見ている。それこそ、血液型人物像の理屈よりレベルが低いのではないかと思う位。

そんなことを言うと、頭がおかしいと思われてしまうのが、この社会。
哲学話をしていて、そんなことを、ふと考えてしまった。

気になった点をいくつかあげておこうか。

先ず、1点目。
「右脳・左脳の活動」とか、「手作業につながる脳活動」の類は、ほとんどの場合、自分自身の知見に基づいているものではない。一方、「血液型と気質相関」は、それなりの感覚的な一致性を感じるからこそ、意味のある知見と考える人がいる訳である。その説に、まやかしが多いのは確かだが。
例えとしては適切ではないが、前者は天動説的で、後者は地動説的なところがある。地動説は確かかもしれないが、日常生活からそれが実感できるものではない。教え込まれて、頭のなかで描いただけのもの。天動説は間違いと知っているが、普段の感覚はコチラ。自分がいる地面は止まったままだが、太陽は天空を動き回っているからである。
つまり、現実には、我々は天動説で暮らしているということ。イデオロギー的なのは、実は天動説の方ではなく、地動説であることだけは、自覚しておく必要があろう。しつこく、もう一言付け加えておこうか。科学的に考えるなら、地動説とは、今のところ反証がなく、一番確からしい「仮説」でしかないというに過ぎない。素人でも、天動説を非科学的と見なせる理由とは、今のところ、経典に書いてある点しか論拠をあげる人がいないから。

2点目。
「右脳・左脳の活動」の説明は典型だが、単に脳の片側の細胞活動が盛んな現象が見つかったというにすぎない。それを説明する「仮説」に、まともな理屈があるかネ。天動説とドッコイドッコイでは。
血液型なら立派な理屈がアルゾ。
人種や民族で、文化が大きく違うことは知られている。そして、血液型分布も。血液型が気質を決めるという理屈には、何の原理も感じられないが、人種と民族が雑種化している国家では、個人の血液型から、どの系統の文化を受け継いでいる可能性が高い人かは推定できるかも。まあ、たったそれだけのことだが、理屈はゼロではない。
そうそう、もう一つある。命名されると、それに応じた生き方をする人が少ないことが知られている。血液型も同じことが言える可能性も否定できない。自分の血液型を聞かされると、なんとなく、通説の体質に沿った生活態度になったりして。プラセボ効果のようなものか、意志の力で気質を変えるのか、判然とはしないが。要するに、「血液型信仰」という文化が蔓延している社会ということ。それでよいのかは別問題だが。
一方、「手作業と脳活動」については、その理屈を信じたとしても、プラセボのような効果が生まれるとはとうてい思えまい。

3点目。
衝撃的と言うか、恐れられている痴呆症状とは、身近な人を認識できなくなる点。しかし、言葉によるコミュニケーション能力が失われていないようだし、身体は自分の意志で動かせるのだから、前後、左右、上下といった空間の観念が消えつつあるとは思えない。
ヒトと対面していることは認識できるが、特定の個体識別ができなくなってしまった訳だ。
徐々に記憶が失われてきた結果ではあるが、特定の個人に対応する「概念」が消失したと見るとわかり易い。
そう見なすと、ピアノのお稽古や手先の訓練で痴呆が予防できるか、はなはだ疑問。いくら熟達しても、無意識歩行を身に付けるようなもの。「見よう見真似」的な反復行動では、狭い分野での記憶量や反応速度が高まるにすぎまい。「概念」形成能力とは無縁なのでは。
「概念」形成は、「創造」あるいは「想像」活動と紙一重の筈。いかに、芸術的に見える作業でも、そんな活動につながらないのなら、ボケ予防にはなるまい。
小生の場合、経験的に、歴史上重要な年号を沢山暗記するような勉強は創造性を抑圧すると見ているから、これは確信に近い。
その観点で、日本人向きなボケ予防は、日本画的に絵を描くことかも。なんといっても素晴らしいのが、題材のパターンがステレオタイプな点。ほとんど同じ題材でも、物真似ではなく、自分独自のモチーフを頭に描く必要があり、これはそう簡単な作業ではなかろう。ここで違いが発揮できたら、おそらくその創造性は本物。
しかも、なんとなく頭のなかで想像したモチーフを紙に描くのも簡単ではない。日本画は、一般に、余白だらけだし、単一色の背景が普通だからだ。そこに余韻を持たせることは至難の技。表現に用いる絵の面積は限定的だし、しかも、二次元の平坦な描き方とくる。これで、複雑な采色も避けながら、独自性を主張するのだから大変。創造性を絵に埋め込むのは相当な工夫が必要。従って、素人だと、自然に誰かの真似になってしまう。
自分が本当に描きたいものを、はっきり認識できていないと、そうならざるを得まい。それを避けるために苦闘し続けていれば、自然と「概念」形成能力が高まってくるのでは。

4点目。
「概念」を失っているのか、「概念」と感覚が違うのか、どちらがボケの本質か考える必要があるのでは。「身近な人」との「概念」が残っていても、それが対面している人とは違うと感じている可能性があろう。鏡に映る自分の像を認識できるのなら、後者かも。
そう言えば、手足を失っていても、幻想から激痛が走ることが知られている。「概念」と「感覚」がズレることは、特異な症状という訳ではなさそう。
そうなると、ボケとは感性が変わってしまったということかも。そう考えれば、これは年齢に関係なく発症する現象とも言えそう。そう、マインドセットと呼ばれる類のもの。ひどい場合には親もわからなくなる。この場合、マインドセットされ易い人の特徴があるらしい。
ボケ予防には、その辺りも注意しておいた方がよいのでは。

5点目。
老化防止には、社会的活動がお勧めとされる。まあ、間違っていない気もするが、曖昧な理由でこれを支持するのは考えもの。
小生は、真っ先に考えるべきは、「触発」の有無。手品でおわかりだと思うが、ヒトは注目しているところ以外には無関心。能動的に関心を寄せる領域があって、そこから「触発」されるものがないと、「概念」など生まれようがない。この点に注意すべきでは。
従って、皆で仲良くすることにもともと関心がある人なら、車座仲良しゲームも「触発」効果があるかも。しかし、その手のゲームがお嫌いな人にとっては、隣の人と知り合う切欠作り以上の意味はないのでは。社会性発揮のゲームがボケ予防になるという理屈は、すべての人に通用できるとは思えないのだが。
そうそう、麻雀にしても、ゲームに慣れれば、それはほとんど「習い性」の行動。勝つための自分なりの技法に沿ってのルーチン化活動そのもの。確かに、ギャンブル的な刺激はあるが、それは「概念」形成とはほど遠い世界。従って、小生には、ボケ防止の理屈は理解できない。
(哲学的に言うなら、人間の認識の端緒は、対象によって触発されることにある、といったテーゼを正統と見なしているから。認知症と名付ける位なのであり、ここがポイントでは。尚、この能力を一般的には感性と言う。この感性があるから、直観が生まれるのである。そして、そこから「概念」が形成され、認識行為につながるのだ。用語はヘンテコで、いい加減な理屈に聞こえるだろうが、別に難しい話をしている訳ではない。)

6点目。
ボケ予防の一番は、「構想力」を磨くこと。これが小生の見解。
サラリーマン稼業はこれが一番苦手というか、これを発揮しないように訓練される職種が多いので、退職後は一気にボケる可能性もありそう。
「構想力」と呼ぶから、それを身につけるのが難しそうに感じるが、実は、「自分なりの」全体像を頭に描くだけのこと。
食事を作るだけでも、実は、優れたトレーニングになるのである。スーパーで様々な食材を見た瞬間、どれを購入し、どのように調理し、どう盛り付けてテーブルに並べ、どんな風に食事を楽しむのか、頭でそれぞれのシーンを想像することになるからだ。言うまでもないが、本のレシピから写してきたメモに従って、食材を購入する活動は、構想力とは無縁の世界。ただ、そんな経験は不可欠である。ベースとしての経験が皆無だと、構想は生まれにくいからだ。
ここで注意すべきは、いくら経験が豊富でも、本格的な構想につなげる活動につながるとは限らない点。構想すること自体が、えらく苦手な人は少なくない。驚かれるかも知れぬが、そんな方が研究者だったりする。

以上、一知半解的な、哲学的オブラートにくるんだ仮説。
尚、小生は、ヒトの認識構造は3層から形成されているように感じている。低層は、触感とそれを補強する視覚・聴覚・嗅覚・味覚の5感。その上に、なんとなく閃く、想像力の第6感の層。そして最上層には、なにげにか、ヒト社会で共に生きようと思ってしまう、良心のような第7感が存在している。
それぞれの層で、快と不快の感情が芽吹くのである。ここを研ぎ澄ませることが、本質的なボケ予防ではないかと思っているのだが、どんなものか。
天動説・地動説でポカミスがありました。


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