毎年、この時期、入学式・卒業式の学長挨拶がニュースになる。今年の祝辞は如何にということで、ニュース検索したら、「【きょうの名言】大学の存在根拠自体が問われている」(YUCASEE 26日)と、「「厄介な社会、気の毒だけど頑張れ」石原知事、首都大卒業式で激励」(産経 21日)とのタイトルが目についた。
早速、名言とはどんな手のモノかな、と思って原文を読んでみた。
うーむ。
時代性を取り上げたり、若者に檄をとばすとか、格言を紹介するなど、様々な工夫がなされているだけのモノが普通なのに、これは異色。
だいたいメディアが取り上げる大学は、コネの巣窟のようなところ。従って、挨拶の骨子は決まっているも同然。----「皆さん社会で頑張って下さいネ。これから先、真面目にコツコツ励むのも良いし、挑戦するのもアリですが、社会に役立つように頑張って下さいネ。そんな初心を忘れないようにということで、私の一言をプレゼント。」てな調子が普通ではないか。もちろん、品位は違うが。
ところが、まともな祝辞が登場したので、ビックリ。
本来は驚いてはいけないのだが。
「卒業生の皆さんへ(2011年度大学院学位授与式)」2012年3月24日
吉岡知哉立教大学総長
以下、勝手に抜粋引用でまとめてみた。
●大学の存在根拠とは、
一言で言えば
「考えること」。
もう少し丁寧に言うと、
人間社会が大学の存在を認めてきたのは、
大学が物事を徹底的に考えるところであるから。
要するに、
●大学での学び(では)
単なる知識の獲得ではなく、
思考法を身につけることが大切。
一般社会生活では、これは難しい。
●現実の社会は、
歴史や伝統、あるいはそのときどきの必要や利益によって
組み立てられています。
日常を生きていく時に(は)、
日常世界の諸要素や社会の構造について、
各自が深く考えることはありません。
そして、厄介なことに、
●社会的な諸制度は
次第に硬直化し
自己目的化していきます。
従って、
●人間社会が健全に機能し存続するためには、
既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、
社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。
大学(と)は、
そのために人間社会が自らの中に埋め込んだ、
自らとは異質な制度。
大学は、
あらゆる前提を疑い、知力の及ぶ限り考える、ということにおいて、
人間社会からその存在を認知されてきたのです。
つまり、
●大学が自由であり得たのは、
「考える」という営みのためには自由がなければならないことを
だれもが認めていたからに他ならない。
言葉を換えると、
●大学は
社会から「考える」という人間の営みを
「信託」されているということ。
言うまでもないが、大学の危機を訴えかけている訳である。
●大学の危機が論じられる(と)
問題になるのは、
「グローバル化」と「ユニバーサル化」。
しかし、
人間社会が
大学に、考える場所であることを期待しなくなっているのであれば、
そのことのほうがずっと深刻な危機。
つまり、大学の役割が変わってしまい、
社会が大学に求めるもの(が)、
「考える」ことよりも
すぐに役立つスキルや技術に特化。
●このような変化の背景に、
そもそも「考える」ことの社会的意味を否定するような
気分が醸成されてはいないか、
という点にも注意しなければなりません。
その通り。反知性主義を叩き潰せるかで、日本の将来が決まる。
素晴らしいの一語につきる。