この連休入りに、山折哲雄さんのコラムが日経に掲載されていた。
「ピープル」の日本語訳についてのお話。同じような話をどこかで読んだ気がしたので、思い出そうとしたが今もって果たせず。濫読屋なので、勘違いかも。
まあ、それはそれとして、主張は単純。
民主主義「人民」共和国と称する北朝鮮の政治体制イメージと重なるから、いい加減に「人民」という言葉を止めたら如何というようなもの。金王朝の、金王朝による、金王朝のための政治体制を、「人民」国家と呼ぶのだから不愉快極まるということのようだ。
はっきり、そう言い切っている訳ではないが、「人民」という用語に違和感ありというのである。
まあ、そりゃそうだろう。
リンカーン演説を翻訳したのは昔々の話なのだから、現代の状況に合う訳がない。(下記論文によれば、日本国語大辞典掲載の説だが、史記の「天下人民」、あるいは続日本紀の「人民豊落」の用語を、中村正直が「西国立志編」の翻訳語として使ったとされる。)
しかし、どうして「市民」や「国民」ではいけないのかという疑問をなげかけるのは、いかがなものか。
保守の用語が「国民」で、進歩派は「民衆」あるいは「人民」といった使用方法をとっていると見ているようだが、時代感覚的にどうかナ。それに、「市民」に係わる感覚も大いに気になるところ。良い「市民」v.s.勝手な「民衆」イメージがありそうだし。
よく言われることだが、リンカーンは、宗教的な文章を引用することで、「Citizen」表現を避けて、「People」を用いたらしい。南北戦争(The Civil War)の傷を配慮してのこと。
それだけでおわかりのように、「市民」という言葉は、もともとは革命用語。そう、フランス市民革命である。学校で教え込まれるのは、もっぱらこの革命でのスローガンの自由・平等・友愛。そんな教育の結果、この言葉になんとなく美しさを感じてしまうが、これらはアンシャン・レジームを打ち砕いた血塗られた闘争で使われたことを忘れるべきでなかろう。その底流にあるのが、「市民」v.s.「敵」という概念である。この思想あってこその革命成就。
その結果は、ご存知の通り凄惨なもの。旧支配階級で無いにもかかわらず、膨大な数の人々が、敵と見なされて殺戮されたのである。歴史授業で必ず習う、ジャコバン派の恐怖政治。もっとも、多くの人にとっては、忘却のかなたの話だが。
「市民」運動は、思想を曖昧にして組織化するので気付かない人も少なくないが、仮想敵が必ず存在するのである。ただ、それを表立って言わないだけのこと。恐ろしいのは、「市民」勢力の指導者が、ご都合主義的に敵を決めることもできる点。要するに、自律的に動く「民衆」の組織に見えるが、それは幻想にすぎないということ。これこそ、フランス革命の貴重なご教訓。
ついでながら、「人民」という言葉を一番嫌うのは日本共産党らしい。「国民」政党化するため、規約改正にあたって、旧規約で多用していた「人民」用語を抹消したそうだ。科学的に表現したいのなら、それこそ「公民」とでもしたらよさそうに思うが、「国民」の皆様のために下働きしますよ的な印象を与えることが重要なのだろう。
どうあれ、日本では「人民」概念が身に付くことはあるまい。日本は、自由を追求する「人民」が、「互に独立の生を遂ぐるがための社会をつくろう」ということで生まれた国家ではないからだ。
「人民自ら政治を行ふのに、善政だの悪政だのあるべきはずがない。若し人民の利益に反した政治を行へば、総理大臣、大統領を改選するまで」という社会ではないのである。現実の政治は、どう見ても、組織の、組織による、組織のためのもの。それを無理矢理、国家の、国家による、国家のための、政治と呼ぼうとやっきになっているだけ。
そうそう、最近は、臣民による政治実現を目指す人達も活発に動いているようだ。
日本人は言葉の重層性の森のあいだを迷いつづけており、これこそアイデンティティ・クライシスだそうだが、もともと、そんな曖昧さを場に応じて上手に使うことで生き抜いてきた「国民」とは言えまいか。
(新聞のコラム) 「ピープル」の和訳 分裂する言葉、国の姿問う 山折哲雄 2012/4/29 日本経済新聞 朝刊 25面 連載コラム「危機と日本人」(9)
(論文) 加藤哲郎:20世紀日本における「人民」概念の獲得と喪失 政策科学8−3,Feb.2001