「People」翻訳話に刺激され、「Easy Japanese Cooking」をとりあげたが、次元が違いすぎだったか。
ということで、古い話で恐縮だが、仏語の「intellectuel」を取り上げてみた。
この言葉に該当する日本語は以下のように変遷してきたとされる。
(明治) 学者、学者先生 → 学識者 → 有識者、有識者階級
(大正) 知識階級 → インテリ
(戦後) 文化人
(1970年代) 知識人
実にジャーナリスティック。その点では、山折哲雄さんの「People」論の新聞コラムと似たところがある。素人からすれば、流石、一流の文筆業者だと感じる訳。
こちらは、1996年に亡くなった政治学者丸山眞男が"近代日本の知識人"論で展開した核心的箇所。
著者名を明かせば、どんなことが書かれているか、だいたい想像できよう。
ただ、間違いかねないのが「文化人」か。これは、「インテリ」の芸能タレント化と、インテリとは縁遠かった「芸能人」のインテリ化という、2つの流れの融合から生まれた用語だそうである。マスメディアの時代に入って、「インテリ」という用語に似つかわしくない人達が登場してきたのである。
ちなみに、小説家やジャーナリストは「ブンヤ」で「芸能人」の同類。戦前は、「インテリ」のカテゴリーには入っていなかったとのこと。尚、鴎外や漱石は職位を与えられた人達だから小説家にもかかわらず例外扱い。
この説明だけで、多分、論点がおわかりになれるだろう。丸山は、「知識人」という用語は、公的に権威付けられた一部の職業人を意味していると、看破したのである。
要するに、日本の「知識人」は、西洋的な知的王国の住人では無く、知的共同体への帰属感などある筈もないと見た訳。
丸山政治学の本領発揮といったところ。蛸壺文化Japan論の源流でもある。
言うまでもないが、学者がそんな体質に染まってしまえば、自分の仕事が学問全体のなかでどのような位置にあるかなど考えることもなくなる。その結果、新しいものの見方を提起する力が失われていくことになる。
そこら辺りの丸山の感覚に触れたければ、直裁的な表現もあるので、ノート本がわかり易いかも。
よく引用されるのは、・・・「国際交流よりも国内交流を、国内交流よりも人格内交流を、自己自身のなかで対話を持たないものがどうしてコミュニケーションによる進歩を信じられるか」。
この主張、感覚的にはわかるが、思うに、国力が劣っているキャッチアップ時代には致し方なきことでは。知恵を生み出してきた「系譜」が無い世界で、突然にして素晴らしい成果が生まれる訳がないからだ。ゼロから始めるつもりなら、最初はそれぞれの領域毎に先進国の知性を追っかけながら、コツコツと国内で弟子を作るしか手は無かろう。その動きだけ眺めれば、当然蛸壺状態。しかし、それを単純に批判するのは考えもの。
しかも、もともと「identity」に相当する概念を欠く社会であることを知りながら。
問題なのは、ある程度キャッチアップできても、ダラダラと同じ姿勢を続ける点。殻を破り、新しい一歩を踏み出す必要があるのに、そんな動きを抑えようとする人が多いのである。この場合の蛸壺文化は進歩の阻害要因そのもの。
だが、それを日本文化特有と見なしてよいものだろうか。
小生は、そうなってしまったのは、戦後、あまねく就組織ルールが敷かれてしまったことが原因と見ている。・・・組織間の流動性が無いのだから、職業人として食べていくつもりなら、蛸壺化せざるを得まい。実際、どの大学を見ても、専門分野の蛸壺化より、学閥的蛸壺化の方が目立つ。もちろん異質人材登用も珍しくはないが、それには、そんな風土を壊そうという意図は感じられない。刺激的人事も多少は必要という程度では。
だが、間違えてはこまる。大学ではとうてい無理だが、多くの場合、組織内で見れば流動性というか内部交流は極めて活発だったのである。その典型が大企業。労働者階級と知識人階級が混交状態におかれ、資本家が担当していた椅子に知識人が座ることも。それが、なんの違和感もなく行われたのである。知的エリートとして雇用されても、工場現場の工員的経験を経て、上層へと進む仕組みになっていたりするのである。
「文化人」誕生は、知恵の系譜なき浅知恵蔓延の始まりに映るかも知れないが、企業組織内での知の交流と類似な動きと考えれば、日本型創造力の象徴と捉えることもできるのではなかろうか。なにせ、浅知恵しか生まれないと思われた製造現場から、次々とイノベーションが生まれたのである。日本での変化は、常に、上か外からやってくる訳ではない。この場合、明らかに下からきたのである。しかもそれは自発的で、自然に育ったのである。その結果、西洋を凌駕するまでになり、1990年代は、なんと、西洋が日本のキャッチアップに勤しんだ訳である。
そうは言うものの、丸山の指摘は鋭い。日本の知識人は想像力が欠如しているというのだ。確かに、そうかも。
対象をじっくりと見つめ、深く考え続け、そのなかの可能性を探ろうとしない体質は確かに目立つ。そうなるのは、新しもの好きだからと言われれば、そうかも知れぬという気にもなる。しかし、いくらでも別な見方ができるので注意した方がよかろう。
例えば、日本人は進歩好きな人だらけと考えることも可能。人々の志向とは反対に、それぞれの人が属す既存組織は保守的だから、新しいものに飛び付くことで壁を突破しようと動いていると見なす訳である。理屈など、いくらでも生み出せるもの。
それより、考えておくべきことは、ドッグイヤーで進む時代、想像力を欠く状況だと、後ろからどうにかついていくことになりかねないという点。しかし、日本の大学はそれを防ぐどころか、促進しかねない教育しかできないのだ。どうなることやら。
(本)
"近代日本の知識人" @ 丸山眞男:「後衛の位置から―現代政治の思想と行動追補」 未来社 (1982/01)
丸山眞男:「自己内対話―3冊のノートから」 みすず書房 (1998/2/1)
(当サイト過去記載)
突然降って涌いたピープル論(20120504)
「Easy Japanese Cooking」をどう翻訳するか(20120506)