青山霊園には、「からくり儀右衛門」こと田中久重(1799-1881年)の墓所がある。この探究心と創造力を受け継いでいこうと考える企業が大切にしているお陰で、綺麗に整備されている。
日本人は、この手の精神的伝統が大好きなようである。
「ものづくり」精神も、日本製造業全般に通用するものとして、多くの人が格別な愛着を感じている言葉のようだ。まあ、生産技術とか、製造技術という言葉では精神性を訴えることは難しいだろうし。それに、1980年代に日本の製造業が世界市場を席巻できたのも、「ものづくり」のスキルあってこそ。従って、これを忘れずにということもあろう。
しかし、「からくり儀右衛門」のイメージと、一般に流布している「ものづくり」精神が、同類とは思えない。曖昧な定義で、「ものづくり」に徹しようとの方針を打ち出すのは、そろそろお止めになった方がよいのではないかと思うが。
と言うことで、この2種類の伝統について、ちょっと触れておこうか。
「からくり儀右衛門」の基調はあくまでも進取の精神だと思う。特筆すべきは、好奇心が旺盛なこと。その結果、様々な工夫を試みる積極的姿勢が生まれる。
これに対して、一般的な「ものづくり」精神は大分違う。なんといってもその精神的特徴は協調。そのためには、誠心誠意尽くしていることを示す必要があるから、手抜きなどもっての外。正確性には徹底的にこだわることになる。なにをするにも緻密さを旨とし、とことん追求する職人的な姿勢をとることになる。曰く、農耕民族的なしぶとさ。
日本の製造業には、この2つの流れが混在している。それこそが、日本における伝統と考えるべきではないか。
もし、その理屈が必要なら、3万年前の日本列島を想像すればよいだけのこと。こういう主張を簡単にできるのも、日本の特徴かも。ご都合主義的に、時流に合った説と見れば、すぐに正論とすることに吝かではないのである。そんな柔軟性を発揮することで、大国の圧力を受け流して、それなりの地位を保ってきたということ。この点はお忘れにならないように。
折角だから、その理屈を。・・・
ご存知のように、その頃、伊豆七島の神津島の黒曜石が本州で流通していた。間違えてはこまるが、箱根や伊豆半島でも黒曜石は産出しており、それも使ったりしていたのである。神津島産は最高級品ということ。もちろん、黒曜石代替石も流通していた。しかるに、どうしても神津島産使いたい人達が少なからず存在したのが本州の市場。
言うまでもないが、神津島産だと、とてつもなく鋭利な道具ができる。しかし、そのことは、細工は厄介極まることを意味する訳で、専門家でないと上手に作れないのだ。そんな面倒な手間を惜しまない、製造業者が存在したということ。そして、その機能を伝え、遠くまで持っていく熱心な人がいた訳。
神津島産黒曜石は例外と考えないように。
その頃、世は打製石器の時代の筈だが、日本では斧形磨製石器が結構使われていたのである。製造には長時間を要すだけでなく、石の吟味能力と、高度な研磨テクニックが不可欠だ。発掘が進むとどんな評価が下るかわからぬが、世界的に見ても、これほどのこだわりを広範囲に見せる地域はなかろう。世界四大文明発祥より前に、日本列島では、すでに、そこまで道具の作り込みが進んでいたのである。
コレ、「からくり儀右衛門」の姿勢プラス「ものづくり」精神が満ちていたからとは言えまいか。
と言っても、単なる感覚的な類似性にすぎないのだが。
おそらく、日本人の一番の特徴は、観察眼の鋭さ。
ご存知のように、日本人は、魚介、昆虫、樹木の分類に関して、古代からとんでもなく細かい。トンボやアメンボのような、生活に関係しそうもない生物にも著しい関心を示しており、自分達が使う道具についても、その材料から細かな検討が行われていてもおかしくない。現代に至っても、包丁を見ると、汎用は嫌われており、細かな分類毎にそれに最適なものが製造されている。そこまでしなくても、どうにかなるのだが、質の低下に気付く人がいるからそうは問屋が卸さないといったところ。どの分野でも、おしなべて肌理細やかな商品だらけ。これが日本の特徴。
そんなアナロジーで現代の化学産業を眺めることも可能。反応容器の洗浄一つでも、当該製品製造プロセスを考えると、汎用ではなく、最適な専用工具を工夫せずにはいられないのである。もちろん、徹底的に汚れを落とせるように、作業員がさらに考え抜いて、付属の治具を考案することになる。結果として、ミクロでコストは上昇するが、そんな取り組みが至るところでなされるので、結果として競争力が向上したりする。
これは凄いということで、「ものづくり」礼賛に繋がったりする訳である。
しかし、その体質が抱える陥穽にも注意を払っておく必要があろう。
細部にこだわり、正確無比な製品をつくると言えば結構な話に聞こえるが、視野が狭く、ひとりよがりで柔軟性を欠いていることを意味しかねないからだ。その傾向が酷すぎれば、偏屈な追求に陥ってしまう。しかも、それが協調的な組織で発生するのだから大事。気付く人は少ないし、気付いても慮って指摘を避ける。それは裏を返せば、排他的な風土ということでもある。孤立化リスクは小さなものではない。