小生の時代、高校の英語副読本はAnimal Farmだったが、エッセイといえば必ず登場するのがサマセット・モームの作品。
ジョージ・オーウエルの慧眼を学ぶと言う点では、高校生にとってもそれなりに魅力的だったが、モームの作品は一体どこが面白いのかさっぱりわからず仕舞。こういっては何だが、天声人語的。
それでも、「月と六ペンス」、「人間の絆」、「サミング・アップ」の原書は購入。されども、読み通す気力がさっぱり湧かなかった。今思うと、実に、非効率的というか、逆効果でしかない受験勉強。もっとも、それに気付かなかったといえば嘘になる。若者としての妙なプライドが、効率的な対応をさせなかっただけの話。
そんな経験がありながら、今更、モームの作品再考でもないのだが、ようやくにして、なんとなくモーム愛好者の感覚がわかった気がしたので、書き留めておきたくなったのである。
たまたまだが、「モーム語録」なる邦訳文庫本を読んだのである。別に熱意があった訳ではなく、それこそ、ラ・ロシュフコー箴言集とか、芥川龍之介の侏儒の言葉といった手の本でも読むかといった、お気軽気分で。なにせ、ワイン片手に、微風流れる木陰での読書。
(ただ、そんな文庫本が1000円を越える価格なのには驚かされたが。もっとも、翻訳本にしては、えらく読み易く、それだけの価値はありそう。)
読んでいて、ハタと思い当たった。モーム本とは、もともと老人が推奨した書物だったのでは。
そうだとすると、成熟し切ってしまった先進国で、モームは再流行することになるのかも。老人人口増加という話ではなく、若者の精神的老成化が著しいということ。どう見ても、周囲との和やかな付き合いが最優先されており、表面的なコミュニケーションに留めるのが鉄則化していそう。若者社会が、波風が立たないような配慮だらけになってしまったということ。本心で語り尽くすなど、処世術として最低の部類に属す所業とされてはいまいか。
そうなると、個々人にとって見れば、モームの世界が格段に魅力的に映る可能性高し。
こんな話をしても感覚的に通じようがなさそうだから、「モーム自身-老年」のパートで、気にかかったところを引用させて頂こう。なんとなく程度でしかないと思うが、その気分が多少はお分かりいただけるかも。尚、原典は「作家の手帳」(邦訳絶版)。
他人が私をどう思おうと、もはや気にならない。人に好かれれば、控え目に喜ぶが、嫌われても動揺しない。
老年を理由に欠席したり、出席しても面白くなければこっそり抜け出したりできる。これは、老人の決して少なくない特権だと思う。今ではますます孤独を強いられるようになってきたが、それに大いに満足している。
招かれた者がみな片足を棺桶に突っ込んでいる者ばかりのパーティに招かれるのは、本当に気が滅入る。馬鹿は年をとっても相変わらず馬鹿で、年寄りの馬鹿は若者の馬鹿よりはるかに退屈だ。
(本)
モーム語録 行方昭夫編集 岩波現代文庫 (2010/4/17)
Somerset Maugham: A Writer's Notebook (1949)