「暗黙知」のつまらぬ話に引き続いて、ついつい、組織の「知」を支えるコミュニケーションに関して感じていることを述べてしまった。
ご関心のある方もおられるようなので、もう少し書き留めておくことにした。体験に基づく私見に過ぎないので、そのつもりで。
まあ、よく言われていることだが、今回は、「場の空気を読む」スキル。実に曖昧な言い方だが、日本人らしいということで人気がある題材。
確かに、小さい頃から、場の状況の学習を強制される社会であるのは間違いない。この結果、宗教的ドグマのような「正義」あるいは「大原則」を大上段に掲げ、異なる意見をなぎ倒す手の主張が一世風靡可能な訳である。一切の反論を認めないトンデモ体質であることを、臆面もなく誇れる、驚くべき「知的」風土。
そんな欠点を、ユダヤ的発想との違いという毛色の変わった話の展開で、人々に知らせたのは山本七平。
下手をすると、ハーメルンの笛吹き男に自滅の道を歩まされるとの警告と言えそうな主張だが、本は広く読まれても、その真意が理解された訳ではない。それを欠点と見なすのではなく、かえって、肯定的に扱われているのが現実。今や、若者社会でも、「空気を読めない(KY)」タイプの人間と見なされると、村八分になりかねないのだ。
ただ、日本企業内では、「空気」というか、場の状況を察することができないと、生産性は落ちるのは否めない。
成果が上がっている組織だと、こんな会話が平然と行われていたりするからだ。
上司: 「アレどうなった?」
部下: 「アチラでやってもらうことにしました。」
上司: 「そうか、ソノ手で、あと頼んだゾ。」
言葉だけでは、よくわからない。何が問題で、それをどう解決したという報告なのか、そして、それを了承したようだが、何の検討もされていないように映る。しかも、権限を委譲したようだが、どの範囲なのかは全くわからない。
当然ながら、こうした意思決定プロセスを避ける方向に進みつつあるのだが、そのことで失いかねないスキルがあることに十分注意する必要があろう。
曖昧で、場の雰囲気を読むということは、共通の関心事項を知る訓練を積んでいることになる。
細かく言葉で伝えられるようになれば、その必要が薄れるから、そんな訓練が疎かになる可能性は高い。
創造性発揮の観点で考えると、これは大損かも。
日本人は観察が鋭いと言われるが、その力が十二分に発揮できるのは、たいていは、集団で問題に対処している時。
個人技なら、それこそファーブルのように突き詰めた見方ができる人がいればことたれるが、実はそうは簡単にはいかない。
例えば、動物実験で微妙な変化を見つけるといっても、言葉で表現できるような状態になる前に気付くかが発見の鍵。変化の端緒はたいていは「なんとなく変」。実に曖昧な表現だが、その感覚を集団が共有することができると、変化の確証をいち早く見つけることができたりするもの。
小生は、この集団能力は日本語によるところが大きいと見る。
共通の関心事項を知るという点では、動物全般に身についている方法がある。それは、危険信号の発声と、その声の認識。
こうしたコミュニケーションでは、声の強弱が重要なファクター。西洋語はこの手の伝達方法が基底にありそう。そのため、自分なりの危機感を伝えることはできるが、心情のニュアンスはなかなか伝わらない。いわば「叫ぶ」言語なのである。
これに対して、日本語では声の高低が重要となる。おそらく、自分の情感を伝えることを重視しているのである。こちらは、「囀る」言語ということになる。
だからこそ、擬声語が多いのである。そして、その発展系が擬態語。こんな表現は、「叫ぶ」言語では無用の長物。何を伝えたいのか皆目わからぬとなりかねないからだ。
これを踏まえて、創造性が要求される業務での会話を考えてみよう。とっかかりは、個人的な直観。
ところが、この直観を表現するのは極めて難しい。他人にわかるように表現したりすると、実につまらぬ意見に聞こえかねないことが多いからだ。本人は「なんとなく」コレこそが本質という気がしたりするのだが、この心情がなかなか伝わらない訳だ。そこで、役に立つのが、「囀る」言語。
曖昧模糊とした言葉でも、心情共有のスキルがあると、その韻律を耳にした瞬間なにか感じるものがあったりする。場合によっては、琴線に触れたり。そして、コトの本質を皆が考えることになり、そのうち明確に語れる具体的なアイデアにまで発展することになる。
日本語は、このような集団での創造作業に向いているとは言えまいか。
(前回)
日本語コミュニケーションと「知」 (20120612)
「暗黙知」について (20120610)