■■■■■ 2012.6.16 ■■■■■

  西洋音楽は言語脳で聴くもの

ピアニストの園田高弘(1928-2004)がアルノンクールの著作を読んで非常なショックを受けたそうである。
バロック音楽についての以下の記述に衝撃を受けたという。・・・「それはひとつの外国語であるのだ。なぜかなればわれわれはバロック時代の人間ではないからだ。われわれは外国語をどう学ぶべきかを知っている。つまり語彙や文法、発音などを学ばなければならないのと同様に、音楽のアーティキュレーションや和声法、区切りや強調の理論を学ぶ必要がある」。

技巧派ピアニストと呼ばれ、広いジャンルの演奏をこなす点で頭抜けた方だったが、それは、鋭い絶対音感の持ち主だったからではなかろうか。和音はもちろんのこと、雑音を耳にしても、それを即時に音階というか、周波数を当てることができる力があり、頭を駆使すれば、どんな曲だろうが自然に浮かんでくるでは。それが大活躍の秘訣だったと見ているのだが。ともかく、類稀なる天賦の才をお持ちの演奏家だったのは間違いあるまい。
比較は馬鹿げているが、小生など、3年保育での、和音のツェー・ゲー音感教育で泣き叫び、親がこまり果てたクチ。
もっとも、ある程度の絶対音感をお持ちということなら、日本人の場合は結構大勢存在すると耳にしたことがある。幼児音楽教育で鍛えることが盛んなせいかも。

こういってはなんだが、クリスチャニティに理解があり、絶対音感力があるなら、通奏低音が鳴るバロック音楽が、言語であることに気付かない訳がないと思う。どういう訳かわからぬが、バロックを聴いていると、脳みそが勝手に、空想の演奏音楽を付け加えたりすることがあるからである。まるで空耳の世界。
実際の発音は違っていても、言わんとする言葉を耳にしてしまう言語コミュニケーションと全く同じ現象。
そんな経験をしなかったとは、およそ考え難い。バッハ平均律クラヴィーア曲集を全曲録音した方なのだし。
おそらく、世の中、余りに知らない人だらけだから、驚いてみせたのだと思われる。

なにせ、現代の我々が耳にする西洋音楽とはバロックにせよ、ロマン派クラシックにせよ、砂のような大衆相手の演奏会形態のもの。そんな音楽に、言葉を感じる人が存在するとは思えない。
しかし、市民革命前は違った。音楽の単語や文法を理解できる教養豊かな知識層だけが、演奏者の奏でる音を聞ける状況だったからだ。それは、「聴く」という受動的なものではなく、対話と考えるべきもの。和音一つにしても、それに意味があり、両者の共通理解があって始めて演奏が成り立つということ。
ところが、これが、市民革命の結果、対話で無く一方通行になり、大衆的な享楽モノに変えられてしまったのである。市民が音楽を享受できる権利を有することになった訳。
当然ながら、音楽の内容は平易となり、新時代に合った「美」を打ち出すことになる。この発展系が、我々がイメージしている西洋音楽の世界。
従って、バロック音楽は「素朴」で、「平易」というのはトンデモない話。真逆。
決まりごとに応じて、人々は実際に聞こえる筈のない音を聴くことができたのである。当時の楽器の直接表現能力は限定的だったが、聴く方の世界は広大だったと言えよう。その後、楽器はえらく進歩したが、聴く方が単語や文法を全く学習しなくなったため、表現される世界は逆に狭くなってしまったと言えないこともないのだ。
このようなことを踏まえて聴くからこそ、バロック音楽は楽しいのである。

これでおわかりかと思うが、西洋音楽の原点は、あくまでも「語り」。ただ、その言葉を理解できる人は一部に留まっていた。上流階級や特定知識層に限られていたのである。
それが、一気に大衆化。その結果、演奏家が、聴衆に「感じさせる」活動をするようになった。イメージを「描く」ような演奏に変わったのである。
それと同時に、キリストの栄光を称えたり、信仰の告白も、余り題材にしなくなったようだ。

ともあれ、もともとの西洋音楽は言語中枢で聴くもの。日本の流行言葉で言えば、芸術活動の右脳ではなく、論理活動の左脳が音を処理することになる。
まあ、右か左かなど末梢的な話。詐脳活動とでも呼んだ方が本質に迫れそうな気がする。。

(参考)
園田高弘:アルノンクール著 「古楽について」http://www.takahiro-sonoda.com/lecture/002.html
ニコラウス アーノンクール(樋口隆一/許光俊 訳):「古楽とは何か―言語としての音楽」音楽之友社(1997)
ニコラウス アーノンクール(那須田務/本多優之 訳):「音楽は対話である モンテヴェルディ・バッハ・モーツァルトを巡る考察」アカデミア・ミュージック (1996)


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