■■■■■ 2012.6.18 ■■■■■

  詐脳について一言

言語は詐脳の働きによるところが大きいというのが、小生の感覚。つい筆がすべってそんなことを書いてしまった。
「左脳・右脳」という用語は、あくまでも、論理的処理とイメージ処理の象徴語として使うべきと言いたかったからである。物理的に、脳ミソの何処で細胞活動が盛んになるかという話は、低次元であり、どうでもよいと見ている訳。
そんな主張に不愉感を覚える方もおられるようだから、一言追加しておくことにした。素人論議でしかないので、お読みになる場合は、そのつもりで。

猿はどうも言葉を話せないようだ。ところが、鳥は可能。九官鳥やインコの声など、ヒトと間違えるほど。ただ、それがコミュニケーション機能なのかと言われると、なんとも。
しかしながら、ヒトに情報を伝えた例をあげることもできる。偶然といえば、偶然ではあるのだが。・・・籠から逃げ出した、手乗りセキセイインコ(2歳)が、保護された警察署で、飼われていた場所の住所を番地まで正確に話したのである。お陰で、飼い主の元に帰宅できたというから驚く。電話番号や、飼い主の4人の孫の名前までそらんじることができるというから立派なもの。

ただ、普通は、この手の能力はヒトの言語能力とは違うとみなされる。
サーカスの調教と同じようなものに映るのだろう。それに、鳥の大脳はヒトとは相当違うそうだし。
  ・皮質がほとんど発達していない。(低知能?)
  ・左右の半球をつなぐ神経線維の束が無い。(左右独立?)
  ・海馬体がヒトのように形成されていない。(少記憶量?)
しかし、レベルが違っているにせよ、言語機能の一部を持っていることは否定のしようがないのでは。
もしも、否定したいなら、言語の本質をはっきり定義する必要があろう。ここら辺りを曖昧にしたままでは、いくら脳活動地図を調べたところで、それが何を意味しているかわからないのだから、徒労に終わりかねまい。

と言っても、そこが一番の難しさかも。
ヒトの言語は明らかに特殊だからだ。そんなことは、例文で考えるとすぐに気付く筈。
  「ポチは犬である。」
ここで、「ポチ」は、視覚・聴覚・触覚・嗅覚を通じて、現実に存在していることを認識できる実体。一方、「犬」は社会が作りあげた概念で実体をともなわない。こうした抽象概念をヒト以外も持っているかはよくわからないところ。しかしながら、餌とそれを示唆するシンボリックな図形の対応能力は、皆、それなりに持っていそう。
ただ、そうだとしても、「ポチ」と「犬」が同等なものと認識されている訳ではなさそう。そんなことは、ヒトでも当たり前のこと。
  「犬とはポチではない。」
コレ、一見、認識の大原則と考えがちだが、よく考えると、そこら辺りは自明という訳にもいかない。「ポチ」を拡大してみよう。
  「コロも犬である。」
「コロ」と「ポチ」は全く別な実体。にもかかわらず、同じと見なす訳である。要するに、「犬」という言葉は、最初から、カテゴリーとしての抽象的シンボルだったことになる。これができるのがヒトの一大特徴では。言い方を変えれば、
  「犬とはポチのようなもの。」
  つまり、「犬はポチである。」
「ポチ=犬」であれば、「犬=ポチ」という見方。これは、はなはだ不自然。「ポチ=犬」で「犬=動物」なら「ポチ=動物」はわかるが、「ポチ=犬」なら「犬=ポチ」という考え方には飛躍がありすぎる。というか、常識的には間違いでは。
これは詐術に近かろう。ヒトの脳とはこんな作業をしているとは言えまいか。

(ニュース記事) 「お帰り、ピーコ」、迷子インコが住所話し帰宅/相模原 2012/05/02 23:50 【神奈川新聞】
(ウエブ インタビュー) 岡ノ谷一夫:「小鳥のさえずりは人間の言語の期限に迫る鍵の一つです」 COMZINE 2007年11月
(本) 森本浩一:「デイヴィドソン 「言語」なんて存在するのだろうか [シリーズ・哲学のエッセンス]」 NHK出版 (2004)・・・著者はドイツ文学者。
(当サイト記載) 西洋音楽は言語脳で聴くもの(2012.6.16)


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