■■■■■ 2012.8.4 ■■■■■

  古事記本の選び方

8世紀初めに成立したわが国最古の歴史書・文学書とされる「古事記」に関する一般向けの本が、結構、数多く出版されているようだ。その実態はよくわからないが、3潮流ありそう。その上で、読者層に合わせた3種類の体裁といった感じか。
(1) とりあえず気楽に知りたい人向け。
    ・マンガや図解
    ・なんらかの視点で簡潔に整理
    ・当たり障りのなさそうな全般解説
(2) 面白ネタと解き明かし型の語りを愉しみたい人向け。
    ・謎解きの珍説
    ・古事記の独自な位置付け
    ・神話や文学での比較論
(3) 原文に忠実な本を読みたい人向け。
    ・粗筋やハイライト集
    ・読みやすそうな註付き現代語版
    ・文庫の定番モノ
読み方は人様々ということがよくわかる。

小生の場合は、今のところ、インターネットのソースで十分という感じか。解説本嫌いではないから、読み始めた本もいくつかあるのだが、どうも今一歩なのである。
間違えてはこまるが、解説内容が貧弱とか、恣意的な書き方なので嫌気がさしたという訳ではない。「記紀」話になっているせい。そんな記述だと、読了したところで、自分の頭で歴史を考えることができなくなるからお断りということ。
それなら、古事記と日本書紀の違いをはっきりさせた本を読めばと言いたくなるだろう。そりゃ、そうしたいのだが、題名や宣伝文句からではそんな本を探し出すのは難しい。というか面倒。従って、解説本から遠ざかっているのだ。
何故、そんなつまらぬことにこだわるのかと感じる人もいそうだが、簡単に言えば、日本書紀は国定教科書のようなものだからだ。一方、古事記は超一流の歴史書。混ぜこぜで解説されたら、歴史書が描くストーリーが全くわからなくなるではないか。そんなもったいないことしたくないのは当たり前。

そうは言っても、そんな感覚を覚える人は滅多にいないのだろう。
と言うことで、少しご説明しておこうか。

誰でもがわかる古事記の凄さがある。それは、明確に3巻に分けたこと。・・・神々の世界の時代、神と人の交流の時代、人の覇権争いの時代。
そして、この第3巻の記載状況がふるっている。律令国家樹立に向けた様々な施策については一言もなし。およそ、我々の考える通常の歴史書の発想とは異にしていることが歴然としているではないか。なにせ、最終部分に当たる10天皇の期間には、大きな制度いじりがあったのだ。にもかかわらず、あきれるほどなにも書いてない。大きな歴史の流れからみれば、そんな政治的な動きはとるにたらぬことと切り捨てた訳。別に、ここだけではないのである。古事記は注意深く編纂されており、伝えたいことがあるのだ。日本書紀の記述を引用した補足説明を喜ぶ人の気が知れぬ。

まあ、この手の自己主張は政権にとって愉快なものではなかったからこそ、僅か8年後に日本書紀を新たに編纂せざるを得なくなった理由でもあろう。
日本書紀の方針は素人でもすぐにわかる。なにせ、その昔、「日本」という言葉など無いのに、「倭建命」を「日本武尊」と記載したり、「神倭伊波礼毘古命」に「神武天皇」といった漢語の諡号を記載したりするのだから。これだけでも、過去をどう解釈すべきか、ルールを指示したようなもの。それを暗記することが嬉しい人達用の本と見て間違いあるまい。
ただ、力がある氏族対策のためか、異論併記部分があるが、これは、ガス抜き用のどうでもよい話でしかなそそう。

どう見ても、両書がベースとしている歴史観は、はなから違う。しつこいが、そんなものをゴチャ混ぜで読む気にはなれないのである。
冒頭の、世界が生まれる記載からして似て非なるもの。誰が考えても、日本書紀の記述は、中華帝国の標準に合わせて解釈を変えたように映る。そうした見方が必要な時代に入ったことを知らしめるために作られた書ということだろう。その気分よくわかる。国家として対抗できるアイデンティティを示せないとどうなるかわかったものではないと考えてもおかしくないからだ。それだけの緊張感を持って作成したのが日本書紀と言えるのかも。
現代で言えば、それこそマルクス主義者執筆の歴史書のようなものか。社会主義大帝国が世界中の国々を管理する世界が到来すると信じ、それに合わせた日本史を編纂した学者は大勢いたのである。今でも、その副作用は残っていそうだが。

そんなことを考えると、古事記は凄い。ピカ一の歴史書では。
文学書と見なす人もいるが、公的な序文で史書と記載しているのだから、その見方は避けた方がよさそう。
確かに、歌も多いし、神話はダイナミックなフィクションさながら。文学作品としても一流と言いたくなるのは当然だろう。しかし、それは古事記に流れている壮大な歴史観に触れるチャンスを失わせかねないのでは。
特に歌を現代の芸術のように扱うのは避けた方がよいと思う。古代社会では、全く知らない人が出会った時に、信用できるのか、交流能力があるか、価値観を共有できそうか、といったことを歌で判断していたのでは。そんな時代感覚を呼び起こそうということで、語り部の言葉をできる限り忠実に文字にしたのが古事記ということ。そんなことが簡単な筈はなく、とてつもない労力をかけて完成させたのは間違いない。
その歌言葉だが、日本語のコミュニケーション技術に基づいた言葉というより、ヒトの深層に潜む衝動から来る表現かも。文字では表現できないと考えられてきたからである。そうでなければ、文字利用をもっと前から始めていた筈。
なかでも、歌や神話で使う語り言葉は重要だったに違いない。その言葉こそが、意思決定そのものだからだ。ところが、文字の時代に入りそんなことは忘却のかなた。従って、そんな歴史を伝えようとして、一字一句を練りに練った。それが古事記では。

といっても、素人にとってみれば、古事記で気になるのは、なんといっても覇権争奪に関する記載。
古事記の特徴を考えると、この部分の読み方には注意が必要そう。つい、個々のハイライトシーンの面白さを味わってしまいがちだからだ。それこそ、絵本を読むような気分になってしまう訳だ。これは歴史観を読み取る上ではマイナスになりかねない。
個々のシーンではなく、大きな流れを読み取る努力が大切なのである。読めば読むほど、そこに含まれている、深い思想が見えてくるからだ。日本書紀は逆にこの思想性を隠すような工夫が散見される。要注意である。

覇権争奪以外にも、皇位継承、娶り抗争、も圧巻と呼ばざるを得ないシーンが満載。
現代の我々が驚かされるのは、それが問答無用式だったりする点。騙そうが、暗殺しようが、なんでもあり。父だろうが、兄だろうが、その気になれば頓着しない。殺し方も残虐なもの多し。胆力勝負の、まさに実力世界。婚姻についても、基底にあるのは自由気ままな恋愛姿勢。近親婚も気にしない。それに、独特な血族感覚が加わる。
実は、これこそが時代の象徴なのでは。
国譲りも、その観点では意味深長。出雲文化とは、筋肉力での力比べで優劣をつけるような悠長なものだったようである。当たり前だが、そんなものは、中央勢力が所有する最新の武器の前ではなんの役にも立たない。実力主義に歯向かうことなどできる訳がない。
ところが、時を経るうちにこうした文化も180度変節することになる。ついに、兄弟で、皇位を譲り合う事態が発生してしまうのだ。実力主義の終焉である。

(インターネットのソースで十分と考えるなら)
 Wikipedia
 青空文庫( 武田祐吉訳 角川文庫)
 国立国会図書館 近代デジタルライブラリー
(当サイト「古事記を読み解く」記載)
 天地開闢…(20051102)
 国産み…(20051109)
 神産み…(20051116)
 天安河の誓約…(20051122)
 天岩戸…(20051130)
 八俣の大蛇…(20051207)
 大国主の登場…(20051214)
 根の国参り…(20051220)
 大国主の国づくり…(20051228)
 和邇は鰐で鮫ではない…(20060327)
 赤米から見えてくる古事記の世界…(20070417)


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