■■■■■ 2012.8.20 ■■■■■

  ヒノキに関する情報

先日、針葉樹の高野六木(ヒノキ・スギ・モミ・ツガ・アカマツ・コウヤマキ)を題材にしたが、ヒノキを書き忘れてしまった。と言うことで追加情報。

伊勢神宮の式年遷宮で知られている樹木だが、古代から、寺社宮殿等の重要施設はヒノキに決まっていたようで、一種のご神木と見なされていたようである。他の針葉樹より格が上かも。
だいたい、「ヒの木」という名称が特別扱いそのもの。
錐もみ法で火を付け御神火とすることからきた名称との説が有力らしい。確かに、もっともらしく聞こえるが、それよりは、「日」の宮を造る木と考える方が自然な気がする。檜(桧)は国字だろうし。(樹木自体、大陸に完全に合致する樹木が存在しないから当然といえば当然かも知れぬが。)

まあ、この木も相当な歴史を抱えている。
約12,000〜5,000年前と見られている若狭湾三方湖の鳥浜貝塚の発掘調査でヒノキ材加工品が出土しているからだ。ここら辺りでは、スギの大木林の存在とスギ材品が確認されたらしいし、驚いたことに、様々な樹木が用途に合わせて使われていたという。しかも、洗練された木工技術が見てとれるのである。
なにせ、スサノオの話に登場した現物かと思うような、ヤブツバキ材の赤色漆塗り飾り櫛が見つかったほど。使い易い針葉樹が基本材だったようだが、常緑広葉樹の利用も進んでいた訳である。

現在、ヒノキ林として有名なのは木曾。ここら辺りでは7,000年前にヒノキ林がすでに成立していたことがわかっている。ブナ・ナラの落葉広葉樹林が広がっていた頃のこと。
そんな奥山育ちの木の筈だが、若狭湾でも利用する位なのだから、丘陵地帯にも存在していたと見てよさそう。そして、柱材にも早くから使われたのも間違いなさそう。大阪府和泉市池上/曽根遺跡の大型建物は紀元前52年伐採のヒノキ材だからだ。

万葉集にも桧原の歌が登場するが、その場所は三輪や巻向とくる。この頃になると、すでに、人里近くの丘陵にまでヒノキ林が進出していたことになる。そうなると、植林かも。古事記でもスギの挿し木を示唆しているくらいなのだから。(三内丸山のクリ林業集落があったのに、他の地域でできなかったと考える方がおかしな感じがする。)
ただ、人工林造りが確認できるのは1500年ごろ。そして盛んになったのは江戸幕府の頃の材木需要旺盛期。大切な森林財産として、木曾五木が設定されたことはよく知られている。その樹木とは、ヒノキと以下に示すヒノキ類似3樹木と、混交林になり易いコウヤマキ。
  ・サワラ(ヒノキ類似樹木)
  ・アスナロ(明日のヒノキ)[ヒバ]
  ・ネズコ(黒ヒノキ):神代杉代用材

(当サイト過去記載) 昔の樹木に想いをはべらす(2012.8.16)
(木曾の古代林について) 森は死しても花粉を残す −花粉分析のはなし−(森林科学研究所)渡邉仁志


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