世襲で政治家の道に入った世耕弘成参議院議員は、ノーベル賞を受賞した山中伸弥教授と中高6年間一緒だったそうである。ブログで、学校の「ユニーク」性を語っているのが、「今時」新鮮に感じた。その気分を、是非とも、持続して欲しいもの。
「ユニーク」な教育を受けた誇りこそ、ことの他重要と考えるからだ。世耕議員がどういう主張をしておられるのか全く存知あげないが、期待したくなる。
わかりにくいかも知れぬが、こうした誇りなしにはエリートは育たないと考えるからである。
生徒が主義主張できるとか、生徒の自主性を尊重するとか、はたまた校則無し云々は、どうでもよいというと語弊があるが、二次的なこと。自由な自治会活動、各自勝手気ままな服装、自主的計画の修学旅行、等々を実現している高校など今時珍しくもない。しかし、個人主義を嫌う社会では、このようになったからといって、自らの意志で新しい道を切り拓ける人材を生み出す土壌ができるとは限らないのである。せいぜいが、高校生活自由で楽しかったネということで、いつまでも同窓会が盛り上がるだけのこと。重要なのは、エリート意識を叩き込めるかである。・・・これを偏差値教育と間違えてはこまる。それはドングリの背比べに毛がはえたようなもの。作られた枠組みに合わせた成績優秀者を効率よく量産するだけの教育システムと言ってもよいだろう。そこからは、新しい枠組みを構想するような人は滅多なことでは生まれない。これではこまるのである。
かつての高校教育では、かなりの高校でエリート意識を醸成する雰囲気があったと思われるが、今はほとんど感じられないのでは。現実の例であげれば、都立小石川高校出身で、今や嫌われ者の代名詞でもある小沢一郎国民の生活が第一代表には、エリートとしての自負がありそう。ここが重要なところ。
「あの年代」というのも、実に嫌な言葉だが、今とはかなり違う教育だったことを知っておく必要があるかも。地方の状況は知らぬが、現在の70歳近辺から団塊世代が在籍していた時代、東京での、有名進学私学高校やメジャーな都立高校の教育者の多くは、旧制中学的な雰囲気を愛していた人が少なくなかったと思われる。
そのお蔭で、どの高校も、それぞれ頑固な校風を持っていた。と言うか、何人かエリートが育てばそれだけで十分と考えていた教師がいたということ。表面的には、面倒見はえらく悪い筈。いわば、生徒は勝手にせいという態度で、サービス精神の欠片さえないのだが、実はそれこそが、エリート育成教育の決め手。
そう言えば、おわかりでは。
今や、その面影もない学校だらけなのだ。学校の機能の再定義とか、サービス業としての教育といった用語を使えば、それなりに格好はつくが、どう見ても、反エリート的大衆教育機関に変身したにすぎない。
これで、大型人材が育ってきたら奇跡に近いのでは。・・・それが小生の実感。
これでは感覚がよく伝わらないか。
簡単に言えば、かつての発想とは、できない生徒は落伍して当たり前というだけのこと。それを覆い隠す、馬鹿げた施策は誰もやらなかったのである。せいぜいが温情止まり。ところが、今日日、それが常識ではなくなってしまった。
議論になった、初等教育における「ゆとり」の考え方の問題もそこら辺りにあると思う。
時間の余裕がどうしても欲しいなら、生徒自らが、どうするか考えるだけのこと。時間を与える話ではないのだ。この原則がわからないままでの議論は時間の無駄だと思う。それこそ、やりたいことがあるなら、成績が悪くてかまわぬと決断すればよいだけのことだからだ。問題はそんな生徒がさっぱりいなくなった状況の方である。それを知りながら「ゆとり」を与えれば、することもなく時間だけできるから、集団徘徊者だらけになったり、時間潰しの遊びにのめりこむ現象が顕著になる訳である。
ポイントは自立できる生徒を生み出す方向に進んでいるかだ。
参考になるかわからぬが、小生の経験を紹介しておこうか。
座席は近かったが、ほとんど交流無しの高校同級生の話。英語が落第点でこまっているのは聞いており、遊び時間を少しは削ったらと言っていたのだが、間の悪いことに、その彼と映画館でバッタリ出会ってしまったのである。お蔭で、手抜き勉強していることを知られてしまった。当然ながら、テストを乗り切る方法論をしつこくきかれた訳。そこで、先ずは辞書位使えよと言ったのだが、それに応え、彼は徹夜して辞書を勉強したのである。なにをしたかといえば、英語の辞書をピッタリと格納するアルミ箱の板金加工。その出来栄えは、それこそ空前絶後。素晴らしいの一語。およそ馬鹿げた話だが、それこそが無線通信が趣味で、工作マニアでもある彼の誇りでもあった訳である。大学に入ってからも、日当が高い地下鉄工事人夫のアルバイトで体をこわしたりと、およそ常識はずれ。そんな生活を知る人は少ないかも知れぬが。尚、最後の職業は東大の教授。彼の学問上の功績については、小生は全く存じ上げない。
残念なことに、こんな話をしても、最近の自称「エリート」にはこの意義は理解できないようだ。偏差値で差がつけば、それは能力ありの証拠と考えるのかも。それは創造性とは無縁の世界ということさえ、わからないのである。しかも、ガツンの一撃さえ無い大学教育とくる。これでよいのかネ。
そうそう、人口が少ない地方では、この手の話は全く参考にならないからご注意の程。
(ブログ) 【山中伸弥教授を育てた大阪教育大学附属天王寺という学校】2012年10月11日 世耕日記