今回は、突拍子もないタイトルで。
奇をてらっている訳ではなく、本気でそんな観点で日本語文法を考えている最中。と言っても、せいぜいがWiki辺りを読む程度から一歩進んだ程度で、とても勉強していると言える水準には到達していない。そんな状態で、ヘンテコな内容の話を書くことに躊躇はしたのだが、とりあえず感じていることだけ書いておこうかという気になっただけ。
イノベーションを生みだすための必要条件を考えると、先ずは、組織にそんなことをしようとの雰囲気が出来上がっていることがあげられよう。所謂、創造的な緊張感が満ち溢れているといったところ。卑近な言い方なら、ビジョン実現に向かって、一丸となって全身全霊で注力しているということ。
こうした環境自体、なかなか作りだせないものだが、まあまあの状況に達したと自負したところで、後は時間の勝負とはならない。必要条件だけで、十分条件は全く満たしていないからである。少なくとも、新しい気付きが生まれない限りイノベーションには繋がらない。ここが肝心なところ。
従って、一番の課題は、この「気付き」が生まれるように組織を鍛えること。
すでに、どういうスキルが必要か、だいたいのところはわかっている。にもかかわらず、さっぱり力がつかないことが多い。ポイントとして書けば以下のようなもので、どれもこれも、難しい内容とは思えない代物なのだが。
・分析的思考でざっと眺める力
レベルが低すぎると、成果は期待薄。
ただ、この発想に拘ると、真似仕事化し逆効果。
・・・成果が出ないのは、行き過ぎ現象かも。
・視野を広くするための手立て
同質の狭い分野の人々だけでは無理。
異なる見方も知らないのでは、道遠し。
・・・成果が出ないのは、閉鎖的体質のせいかも。
・異質の発想を生かす場作りへの慣れ
混乱の極み体験無しだと、凡庸化不可避。
ガツンと一発を愉しめないと、アイデア出しに呻吟。
・・・成果が出ないのは、カオス的議論を嫌うからかも。
・大局的観点からアイデアの価値を見抜く力
直観力を生かせる見方ができないと、端緒発見は不可能。
小さな思い付きを大化け出来ないとつらい。
・・・これだけは、なんとも。
厄介なのは、なんといっても最後。全体の概念的把握ができると、気付きが生じるということだが、人によって相当な能力の差がある。分析能力でピカ一でも、ことこの話になると何もできなかったりするもの。まあ、その実態を描けばこんなところ。・・・
ゴチャゴチャと色々なことが存在している世界を、様々な方向から見つめ、すでに知られている「モノの見方」で解釈したりしながら、全体を俯瞰的に眺めると、そのうちなんとなく全体像が頭に浮かんでくる。そして、突然のように、素晴らしいアイデアが生まれるのだ。
言うまでもないが、そんなことができるようになるには、組織的訓練が必要だと思われるが、組織によってやり方が違うから、他社事例から学ぶと逆効果だったりしてえらく悩ましい。
ところが、よくよく考えて見れば、日本語で議論していると、こうした頭の使い方をせざるを得ないことに気付かされる。
比較として、英語を考えるとよくわかる。SVO式構文だから、話す内容の大枠は必ず文頭で示されてしまう。従って、頭は分析的に働くことになり、出てくる情報を整理しながら理解を深めることにならざるを得ない。
ところが、日本語はこれができない。文末に重要な話が集中しており、情報はその前にバラバラと提示される。予め整理しておくことができない構造なのだ。なにせ、提示の順番ルール無しに、色々な情報が提示され、それが終わった文末で、突如として、受身、否定、疑問等が示されるのである。必要と思われる断片情報を先ずは伝え、全体像のイメージがなんとなくできあがったところで、それをどう見ているかを伝えるのだから、かなり厄介な意思疎通方法と言ってよいだろう。
例えば、こういうこと。
「犬が猫を咬んだ。」は単純な文章であり、「場」がわかっていれば、言いたいことが伝わる。しかし、これは英語の翻訳では滅多に無い文章。シーンを想像するに、「その犬がその猫を咬んだ。」かも。他の場合もありそうだが。日本語を母国語としていると、この手の想像はお茶の子さいさい。想像能力は日本語を使う上で不可欠なスキルだからである。
それでは、「犬が猫を咬む・・・」と、文章の途中で文意を想像できるだろうか。ここが肝。
犬も、猫も、何を指しているのか曖昧なままだが、ボヤーとしているものの、「場」を想像するしかない。英語では、このような事態に遭遇することはない。文頭の主語述語で予めどういうシーンが展開しそうか、大枠を伝えているからだ。従って、ここまでで意味はほとんどわかっており、どんな情報がこの後に追加されそうかという観点から頭が回転することになる。
日本語はそうはいかない。この文の後に付く言葉で、いかようにも変化するからだ。文末まで目が離せない。
・「咬むらしい。」「咬むものかね。」「咬むことはない。」
・「咬むところを見た。」「咬むと聞いた。」「咬む話は面白かった。」
・「咬むように、赤ん坊も・・・」
いくらでもある。これこそが日本語の特徴。そんなことは、日本語話者なら、誰でも知っていること。
明らかに、「場」を意識させ、その後で思う存分「情緒」を伝えようという仕掛けである。英語のような単刀直入のやり方を避け、柔らかい形で意思疎通を図っていることになる。時間を喰うから非効率と言えないこともないが、その代わり、全体を眺め回す余裕を持つことになり、思考を深めるのに向いていそう。ある意味、日本語はえらく哲学的ということ。
このことは、日本語を母国語としていると、議論を通じて、大局観を養う訓練を積んでいると言えなくもなかろう。それを自覚して過ごしていれば、全体像の概念的把握能力が自然と身についてしまう可能性もありそう。
こうした見方が当たっているなら、日本語を母国語としている人達の集団には、本来的には、イノベーション創出組織としての優位性がある筈。これを利用しない手はあるまい。