■■■■■ 2013.3.19 ■■■■■

  とある考古学者の本を読んで

「国分寺」と「立川」の間の地域は「国立」と名付けられている。コクタチではなく、どういう訳かクニタチ。そりゃそうである。コクと残せば、普通の読み方ならコクリツになってしまう。タチコクにすればよさそうなものに。もっとも、コクリツとも読めるところが大いに嬉しかったに違いない。そうでなければ、わざわざこんな名称にする訳がなかろう。
「西東京」との地名もあるが、こちらは、東京の西にあることが嬉しいのだろう。「東京」は、言うまでもなく東の京という意味。それは皇居が東に移ったからという気分でつけたように見えるが、維新のリーダー達の感覚は全く違ったものだったと思われる。なにせ、攘夷から開国へと大転換を図った人達なのだから。北京、南京、東京といった、アジア圏の大都市群での位置付けを考えていたに違いなかろう。
・・・などと考えさせられたのは、とある考古学者の本を読んだからである。

「分類が謎を解く」という題名が気になって読んでみたのだが、知りたかったところは残念ながら、開示されていない。というか、そこは個人の直観の領域だから、書き様が無いということかも知れぬが。
成果をあげている学者の方々のアプローチには不可思議なところがある。どうでもよさそうな細部に矢鱈にこだわり、どうしてそうなっているのか徹底的に追求するのである。それが切欠になって、様々な新しいことがわかってきたりするのだが、その成果を説明されるとフーンとなるが、瑣末に見える点など五万とある筈で、いくら調べてもなんの意味もなさそうという結論になるのが普通なのでは。おそらく、おくしたやり方を真似したりすれば、壮大な徒労に終わるのが関の山。
どうでもよさそうなもののなかから、新しい知見を得られそうな対象を見つけるところが肝なのではなかろうか。

例えば、こういう部分が選ばれている。
 ・描かれている動物の「角」
 ・獣面の「舌」
 ・白虎あるいは青龍の「指」
 ・墓誌や瓦の「縁取り」

おそらく、最初になんらかの仮説があって、ここは面白そうだとなったと思われる。そのセンスをどうやって磨いたのだろうか。
上記で言えば、「角」なら素人でもさもありなん。宗教的な意味についての研究もありそうだから。しかし、「舌」はどうなのだろう。
ひょっとすると、それは「指」に関心を持った結果かも。と言うのは、単なる「指」ではなく、四本指表現が存在するから、追求しているのである。この手のものは、たいていは、間違いとされる。子供のお遊びの絵でもないのに、そんな馬鹿な話がある訳もないが、説明できないから勝手にそう決めつけてこの問題に触らないようにする訳である。騒ぐのは、たいていはアマチュアで、なんの証拠もなく、論理も滅茶苦茶なお話をつくりあげ喜ぶ訳だ。
「縁取り」に注目するというのも、なかなかできることではない。そんなものは、その場で適当に処理されるだけ。見るべきものは紋様であり、その変遷を検討すればよいのだと考えるのが常識な線。
しかし、そこになにかあると気付いたとしたら、それは全体の眺めた時に「縁取り」の印象が強かったということだろう。そうなれば、作者がそのデザインをないがしろにする訳もないし、主紋様と「縁取り」がなす模様で全体を設計していると見なすことになる。分析スキルを磨いているだけでは、このような感性は働かない。一般に、専門領域に集中すればするほど、こうした感覚は鈍るものだが、一流の学者はそれが逆に働くのは何故なのだろうか。

そうそう、もう一つ決め手となる能力にも触れておかねば。この本の題名でおわかりのように、「分類」の仕方である。
分析スキルを高めるとは、一般には、すでに知られている「分類」に堪能になるというだけのこと。だが、実用上は極めて重要である。効率的に仕事ができるか否かは、このスキルで決まるからだ。と言うのは、本人はそう思っていないらしいが、ほとんどの学者の仕事はこのレベルで、ここで競争しているにすぎないからだ。要するに、習った方法論をこの部分に適用してみると、こんな知見が得られたとの報告競争をしている訳。
ところが、このレベルを突き抜け、新しい見方を提起する学者も少なくない。これぞ本物。ただ、その成果が認められるとは限らないからリスキーな仕事をしているといえよう。そういった学者が必ず持っている優れた能力が、実は、新しい「分類」の仕方。分析スキルが低いとできないが、新しい「概念」を生み出す力が飛びぬけているということ。
この辺りをどのようにして強化してきたのかは、残念ながら読み取ることはできなかった。と言うか、そこは教えるようなものではないということかも。ただ、学者の分類論は、そのヒントを与えてくれそうな気もする。

小生から見れば、「オクテ」に属する学者が持つ緊張感があればこその成果という感じがした。早くから手がけているスキル巧者には欠けていることが多いからでもある。
そんな「オクテ」派の考古学者(なにせ外国語大学英文科卒)による学者分類が引用されている。面白いのでご紹介しておこう。
 ・宝くじ派・・・やっていれば誰かいつか当たるものだ。
 ・パチンコ派・・・新しいやり方でとにかく賭けてみる。
 ・マージャン派・・・感銘を与える芸術的なやり方に拘る。
 ・競馬派
   -観衆型・・・吟味して、よさげな方法に投資する。
   -騎手型・・・なんでもよいから注目されそうなものに乗る。
   -馬型・・・・先端とされるところで我武者羅に先頭を狙う。
   -馬主型・・・自分で進めるのではなく、新進気鋭の学者を育てる。
実名で例があがっているところを見ると、皆、そう思っていることをそのまま書いてしまったということのようだ。なかなか面白い業界というか、学会のようである。「国分寺」と「立川」の間の地域は「国立」と名付けられている。コクタチではなく、どういう訳か
クニタチ。そりゃそうである。コクと残せば、普通の読み方ならコクリツになってしまう。タチコクにすればよさそうなものに。もっとも、コクリツとも読めるところが大いに嬉しかったに違いない。そうでなければ、わざわざこんな名称にする訳がなかろう。
「西東京」との地名もあるが、こちらは、東京の西にあることが嬉しいのだろう。「東京」は、言うまでもなく東の京という意味。それは皇居が東に移ったからという気分でつけたように見えるが、維新のリーダー達の感覚は全く違ったものだったと思われる。なにせ、攘夷から開国へと大転換を図った人達なのだから。北京、南京、東京といった、アジア圏の大都市群での位置付けを考えていたに違いなかろう。
・・・などと考えさせられたのは、考古学者の本を読んだからである。

「分類が謎を解く」という題名が気になって読んでみたのだが、知りたかったところは残念ながら、開示されていない。というか、そこは個人の直観の領域だから、書き様が無いということかも知れぬが。
成果をあげている学者の方々のアプローチには不可思議なところがある。どうでもよさそうな細部に矢鱈にこだわり、どうしてそうなっているのか徹底的に追求するのである。それが切欠となり、様々な新しいことがわかったりするのだが、そんな成果を説明されるとフーンと納得はするものの、瑣末に見える点など五万とある筈。いくら調べてもなんの意味もなさそうという結論になるのが普通では。おそらく、そんなやり方を真似すれば、壮大な徒労に終わるのが関の山。
どうでもよさそうなもののなかから、新しい知見を得られそうな対象を見つけるところが肝なのではなかろうか。

例えば、こういう部分が選ばれている。
 ・描かれている動物の「角」
 ・獣面の「舌」
 ・白虎あるいは青龍の「指」
 ・墓誌や瓦の「縁取り」

おそらく、最初になんらかの仮説があって、ここは面白そうだとなったと思われる。そのセンスをどうやって磨いたのだろうか。
上記で言えば、「角」なら素人でもさもありなん。宗教的な意味についての研究もありそうだから。しかし、「舌」はどうなのだろう。
ひょっとすると、それは「指」に関心を持った結果かも。と言うのは、単なる「指」ではなく、四本指表現が存在するから、追求しているのである。この手のものは、たいていは、間違いとされる。子供のお遊びの絵でもないのに、そんな馬鹿な話がある訳もないが、説明できないから勝手にそう決めつけてこの問題に触らないようにする訳である。騒ぐのは、たいていはアマチュアで、なんの証拠もなく、論理も滅茶苦茶なお話をつくりあげ喜ぶ訳だ。
「縁取り」に注目するというのも、なかなかできることではない。そんなものは、その場で適当に処理されるだけ。見るべきものは紋様であり、その変遷を検討すればよいのだと考えるのが常識な線。 しかし、そこになにかあると気付いたとしたら、それは全体の眺めた時に「縁取り」の印象が強かったということだろう。そうなれば、作者がそのデザインをないがしろにする訳もないし、主紋様と「縁取り」がなす模様で全体を設計していると見なすことになる。分析スキルを磨いているだけでは、このような感性は働かない。一般に、専門領域に集中すればするほど、こうした感覚は鈍るものだが、一流の学者はそれが逆に働くのは何故なのだろうか。

そうそう、もう一つ決め手となる能力にも触れておかねば。この本の題名でおわかりのように、「分類」の仕方である。
分析スキルを高めるとは、一般には、すでに知られている「分類」に堪能になるというだけのこと。
だが、実用上は極めて重要である。効率的に仕事ができるか否かは、このスキルで決まるからだ。と言うのは、本人はそう思っていないらしいが、ほとんどの学者の仕事はこのレベルで、ここで競争しているにすぎないからだ。要するに、習った方法論をこの部分に適用してみると、こんな知見が得られたとの報告競争をしている訳。
ところが、このレベルを突き抜け、新しい見方を提起する学者も少なくない。これぞ本物。ただ、その成果が認められるとは限らないからリスキーな仕事をしているといえよう。そういった学者が必ず持っている優れた能力が、実は、新しい「分類」の仕方。分析スキルが低いとできないが、新しい「概念」を生み出す力が飛びぬけているということ。
この辺りをどのようにして強化してきたのかは、残念ながら読み取ることはできなかった。と言うか、そこは教えるようなものではないということかも。ただ、学者の分類論は、そのヒントを与えてくれそうな気もする。

小生から見れば、「オクテ」に属する学者が持つ緊張感があればこその成果という感じがした。早くから手がけているスキル巧者には欠けていることが多いからでもある。
そんな「オクテ」派の考古学者(なにせ外国語大学英文科卒)による学者分類が引用されている。面白いのでご紹介しておこう。
 ・宝くじ派・・・やっていれば誰かいつか当たるものだ。
 ・パチンコ派・・・新しいやり方でとにかく賭けてみる。
 ・マージャン派・・・感銘を与える芸術的なやり方に拘る。
 ・競馬派
   -観衆型・・・吟味して、よさげな方法に投資する。
   -騎手型・・・なんでもよいから注目されそうなものに乗る。
   -馬型・・・・先端とされるところで我武者羅に先頭を狙う。
   -馬主型・・・自分で進めるのではなく、新進気鋭の学者を育てる。
実名で例があがっているところを見ると、皆、そう思っていることをそのまま書いてしまったということのようだ。なかなか面白い業界というか、学会のようである。

(本) 山本忠尚:「考古学者は名探偵―分類が謎を解く」 論創社 (2012/12)


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