横幅1mの猫版画がかかる壁の下のソファで、気分に合わせた酒を飲みながら、本に目を通すのは至福の時間。そんな話をしたら、そういう御仁は絶滅危惧種と言われた覚えがある。多分、正解。
そんな生活を心がけているので、今日は、山本容子さんの本を眺めていた。失礼な言い方だが、コリャなかなかのもの。元々は本屋の配布本用の大作家等のポートレート絵だが、モノクロかと思ったら彩色画。絵よりは、コメントの方が愛されていそうだが、小生は絵の方で酔わせ頂いた。対象人物ではなく、その飾りモノにすぎない犬猫達で。
そうだネーと思わず相槌を打ちたくなったのが、「吉田健一」ポートレート。グラスを持つ、人物の立ち姿がとっても素敵なのである。なかでも、その目線。実は、そう感じさせる根拠は、これ又姿勢をただして控える、育ちが良さげなドッグの態度。イイネー。
もっとも、今や、ノスタルジーの世界でしかないが。
思わず欲しくなる一品だが、小生の懐でどうにかなるようなものではない。
犬を褒めたら、猫も。
こちらは、「T.S.エリオット」。いかにも、ネコらしき風情で、エリオットの周りを取り囲んでいるのだ。もちろん、熟睡中もアリ。
それぞれ、自分の興味から注視しているだけのこと。そのセンスの良さは、ヒトのレベルではとても太刀打ちできるものではない。
感受性だけ発達させた頭でっかちな動物と、悪知恵で生き抜こうということで脳味噌を発達させた動物の違いを感じさせる絵である。
ヒトは飼い猫と呼ぶが、明日からでも野猫になれる、その孤高の精神性は一部のヒトにとっては憧れの姿。
もっとも、小生は、T.S.エリオットをそれなりに知っている以上ではないのだが。
まあ、本質的に猫的なのは、おそらく「フランシス・サガン」なのだろう。
そんなネコのイメージと、「ルイス・キャロル」に登場している面白猫の差は余りに大きい。
だが、そんな無邪気そうなネコの前にいる少女が、えらく邪悪な目つきなので、矢鱈と気になる。気持ちを揺さぶる絵である。
少女は芸術家ではあるが、科学者でもある。残念ながら、それはほんの一時にすぎず、たいていは政治屋に変身。感受性は封印されてしまうのだ。
その正反対が「ボードレール」。屍臭が漂うような視線を感じさせるネコが肩にのっかっている。よく見れば、詩人の眼も全く同じではないか。こりゃたまらぬ。酔いが醒めるゼ。
ということで犬に戻ると、こちらはネコと違い感性よりは生臭い政治的動物臭紛々。
「ビリーホリデー」の犬など、その典型。ブリューゲルの絵とは違い、木には黒っぽい袋しかぶる下がっていないが、聡明そうな犬はその意味を察しているご様子。ご主人が立ち上がれば、我もという意志が漂っているから不思議。アルコールのせいかも知らぬが。
レコード板上の、歌手と犬の存在感が見ているものの心を打つ。
まあ、一番楽しいのは、「エリック・サティ」か。
ウィットとユーモアとのコメントがついているが、精神的なガラガラポンの美しさを教えてくれた人である。
現実世界にかかわってきた「ジョージ・オーウェル」とはスタンスが180度異なる。問題だらけの社会であっても、運動にかかわらなければ、メルヘンの社会で生きていけると提起したと言えなくもない。そんな社会のネコが闊歩している絵が実に印象的。
・・・という風に見ていったのだが、ハタと止まったのが、「エドワード・リア」。
ネコ君が草を見上げているのである。
そこには、学名Manypeeplia Upsidowniaなる植物が。ナンセンス極まりない話だが、そう感じるのはつまらぬ時代に生きていることの証左。ビクトリア期のお話なのだ。
ふと、「アポリネール」の肩にのっているCHATの絵を思い浮かべてしまった。全面モノクロ調だが、よくよく見ると猫の一部背景が空色。アポリネールの頬と心臓だけは血の通う肌色。ほほー。
まあ、どうせ、詩を理解する人など社会では少数派。そのなかで、質の大転換を図ることの偉大さ。高揚するのはわかる。
考えてみれば、これは猫の世界のルールそのもの。詩人は猫族の血を引くのかも。
(本) 「山本容子のアーティスト図鑑 100と19のポートレイト」 文芸春秋 2013年2月20日