どうして二足歩行を始めたのかという話には惹きつけられるものがある。小生も何度か触れた覚えがある。
網羅的にヒトと大型類人猿の比較をするようになってくると、なんとなく全体感がわかってくるから、そろそろまともなシナリオが生まれてもよい頃合ではないか。ただ、学者は見事なシナリオを作っても、その裏づけをどのようにとるかを考え抜き、証拠を集めてからでないと発表することはないから、素人の耳に入ってくるのは相当先のことだろう。
そんなことを、ついつい考えてしまうのは、現段階の色々な話を総合すると、すでに、筋道がついていそうな気がしてくるからだ。
【サバンナでの直立】
・遠くを眺めるため。[餌探索]
・直射日光受光面積を極小化するため。[長時間狩猟行動]
【サバンナでの二足歩行】
・長距離を移動するため。[餌動物群追従/乳児保持移動]
【サバンナでの両手使用歩行】
・武器を運搬する必要があるため。[狩の手法]
・食料を遠くまで運ぶため。[運搬手法]
【森での過渡的2足直立】
・木々のぶらさがり枝上歩行の発展形態。
・背伸びして果実をとるため。[採取行動]
【岸壁での2手2足登】
・ナックルウオークの発展形態。
【水中での2足直立】
・首出し水中移動の発展形態。
なんだ、そういうことか、とならないか。どれも当たらずしも遠からずと見ればよいだけ。
その鍵は「裸」にある。毛や羽が無いから、外気に直接晒される訳で、濡れれば気化熱で体温低下に見舞われかねず、裸になる理由がわかりにくいが、その気化熱こそ考える際の糸口そのもの。裸でかつ表皮に沢山の汗腺を持つ理由は、体温上昇を防ぐ以外にありえないではないか。
つまり、ヒトの一大特徴は、大量に汗をかかざるを得ない状態で生活する動物ということ。・・・森での藪こぎ。山の尾根を越えたり、岸壁を登ったり。日陰が無い炎天下の場所にいたり。草原での長距離走。等々。
要するに、雑食であり、食べていけそうならどこだろうが行ってみるというのが特徴では。しかし、寝る場所は確保する必要があるから、どうしてもただならぬ運動量になり、体温が上昇してしまう。馬を除けば、他の動物は、短時間の激しい運動した後、すぐに休息モードに入る訳だが、ヒトは多数の汗腺を表皮に持つことで、そうしなくてもよくなったということ。わざわざそんな厄介なことなどする必要もないのが普通だが、そうはいかなくなったのだろう。地震、雷、火事、乾燥、豪雨と天変地異が頻繁だったのだろうか。
しかし、場所が変われば、すでに身についているスキルだけで生きていくのは難しい。新しいスキルは不可欠である。熱帯雨林の昆虫の多様化のように五万といった変種が生まれるのが普通だが、ヒトはある程度の変種も生んだが、環境に柔軟に対応する道も選べるように進化したのだろう。
それが、環境やスキルを一まとめにした「概念」という「言葉」の創出に繋がったように思われる。頭のなかで、仲間と幻想を共有できる能力を獲得したのである。その切欠は、餌場・水場・寝場所・天敵情報を伝え合うこと。
なにせ、訳知ったるテリトリー内から、同じような環境の外部に出て行く話しではなく、全く異質の世界に入り込むのだ。先ずは、探検者が、新天地のなにかを伝え、それを理解して群れが動くことになる。情報を受ける側にとっては常に想像の世界でしかない。それでも、挑戦的に新しい世界に進出していくしかない。それがヒト。そのためには、「概念」は不可欠。群れで必要な概念をすべて覚えるまでは半人前として扱われることになる。俗に言う一人前になって食べることができるまでには、ただならぬ時間がかかることになる。
ただ、日本人だからそんなことを考えるのかも知れぬ。
日本語は、古代発想紛々の言語だからだ。
例えば、6百万年「前」に分岐と語る。「前」とは、自分の存在する地点から見た位置を示す言葉だが、どういう訳か時間を表すのである。違和感など皆無。明らかに比喩的表現だが、それで伝わるのだ。同じように、「日」は、太陽がガンガン照る野原の状況を示しているのかもしれぬし、そんな場所を示す言葉にも使ったかも。こんなことはチンパンジーには全く興味はないし、教育しても理解できないと思う。
尚、西洋では、そんなことはもともとお見通し。世界誕生は、言葉ありき。
【当サイト過去記載】 「人の起源が見えてきた(20070619)」、「何故、二足歩行なのだろう(20070730)」、「古い二足歩行記事を探してしまった(2012.3.22)」、「二足歩行論の肝(2012.2.27)」、「サルの行動観察話が気になって(2012.5.12)」、「何故、二足歩行なのだろう(20070730)」、「サバンナ二足歩行の裸猿論は余りに雑 (2012.7.14)」