■■■■■ 2013.6.28 ■■■■■

  異端者の尊厳を傷つけて喜ぶ社会になりつつあるようだ

病院で名前でなく番号で呼ばれるのに耐えかね、支払いせずに帰ったとブログに記載し、批判が殺到した岩手の県会議員の方が自殺されたそうである。ご冥福をお祈りしたい。
ソリャ、番号で呼ばれて不快になる人もいよう。ヒトとして扱われないのは堪らんという感情は、人間の尊厳をどう考えるかに直接繋がっており、そこは譲れぬという方は少なくない。たた、日本の社会風土はそういう人を異端と見なす。
この方に対しても、「消えろ!」と言わんばかりの誹謗中傷が執拗に行われたと推測される。それが嬉しい人だらけの社会になりつつあるということ。それを知りながら、異端を護ろうと立ち上がる人もいなかったのだろう。

日本は「なごやかな社会」という人が多いが、それは、自己の尊厳を犠牲にしても、大多数と摩擦を発生させるなという思想に基づくもの。決して誇れるような風土とは言い難い。大多数に従わないと生きていけないゾという圧力で安定した社会をつくりあげているにすぎないからだ。
「表現の自由」とか「信仰の自由」を護ろうという感覚とはおよそ無縁の社会と見なされてもおかしくないが、形式上は自由社会ということになっている。経典宗教の世界から見れば、原則も持たずに生きる、ズル賢い人達の社会と見なされがち。
そうした目で眺めれれば、今回の悲劇など、まさしく典型的事象。おそらく、誹謗中傷側は「表現の自由」と考えており、なんとも思わないだろう。こういう人達にいくら説明したところで、残念ながら無意味。群れて異端を苛めることが正義であり、それが楽しみでもあるのだから、遺憾ともしがたい。

それはインターネットの時代に入ったからではない。
「とかくに人の世は住みにくい。」と喝破した漱石の頃からの伝統。まあ、村八分の時代からとも言えるが。・・・
  髭の男は、「お互いは哀れだなあ」と言い出した。
  「こんな顔をして、こんなに弱っていては、
  いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。
  もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、
  ――あなたは東京がはじめてなら、
  まだ富士山を見たことがないでしょう。
  今に見えるから御覧なさい。
  あれが日本一の名物だ。
  あれよりほかに自慢するものは何もない。
  ところがその富士山は
  天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。
  我々がこしらえたものじゃない」と言って
  またにやにや笑っている。
  三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。
  どうも日本人じゃないような気がする。

  「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。
  すると、かの男は、すましたもので、「滅びるね」と言った。
  ――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。
  悪くすると国賊取り扱いにされる。
     (夏目漱石「三四郎」)


しかし、そんな世の中だが、住むに甲斐ある世でもある。
  住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、
  ありがたい世界をまのあたりに写すのが
  詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である。

こうした「作品」を生み出す人達を大切にするのは当たり前というのは大きな間違い。世界を見回せば、知識層を毛嫌いする国は少なくない。

話がとんでいる気がするかも知れぬが、ココとのつながりが重要なところ。

日本は異端を排除する社会だが、そこには安全弁もついていた。
社会から爪弾きになっていても、スキルがあると、上意下達的に突然特例扱いになったりする。又、上意に反していても、知恵を生み出す力がありそうな人だと匿われる社会でもあった。誹謗中傷の槍玉に上げられたり、国賊扱いされている人達を、護らねばという気概を見せる方々が社会の上層に少なからず存在していたからである。異端者の主張には同意しかねるが、日本は風潮に流され易い社会だから、異端も大事にしなければという訳である。口には出さぬが。

一例をあげておこう。
江戸幕府によるキリスト教の徹底弾圧にもかかわらず、幕府お膝元の関東平野でありながら、表沙汰にしないということで、ひっそりと信仰者が残っていたらしい。全国から集められた治水土木工事のプロ集団だったようだ。裏付けの書きもの類は一切存在しないが、キリスト教信仰を示す仏教型の石像、墓石、遺物類がそれを物語る。公にしたくないにもかかわらず、表面化しているのだから、信徒数は小さなものではなさそう。藩主の半公認状態だった可能性は高い。
打算から、黙認してこき使ったと見ることもできなくないが、日本の上層の人々は、西洋的なリベラルアートの重要性を知っていたということではなかろうか。心のうちの個人的信仰は知るよしもないから、そんな詮索は一切しないので、社会のために頭を使って知的な貢献をせよということ。それは特別な計らいという訳でもなく、単に日本の伝統に忠実であるにすぎないとも言えよう。・・・万葉集には、東国での防人の歌だけでなく、上層とは思えない人々の作品が多数収載されている。古代から、知的に優れた高級難民を歓迎してきた社会だから、こんなことができるのだと思われる。

残念ながら、今や、その伝統も風前の灯火。

(記事) 病院巡り「刑務所か」 ブログ炎上の岩手県議自殺か 2013/6/25 13:03 日経


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