表紙
目次

■■■■■ 2014.7.22 ■■■■■


監禁児童救出の報を耳にして

監禁されていた小5児童救出の報にホッとした人も多かろう。
この手の事件では、情報が少なく、容疑者特定が極めて難しいのが普通だからだ。自分の周りで、他人がなにをしていようが、それはプライバシーにかかわることとされ、皆、関心を払わないようになってきたから、情報収集も大変だと思う。
と言うか、人権意識が生まれ、「アイツはどこかオカシイぞ。」と言った差別的発言をしなくなったということでもある。それはそれで結構な話だが、異常な事件になるとそうはいかなくなる。その辺りの境は難しい。

たまたま、拉致状況に関する情報が豊富の時もあるが、だからといって、特定の被疑者が犯人であると断定可能な証拠が揃う訳でもあるまい。
被疑者が特定できることもあろうが、たいていは軽度な疑い以上ではなかろう。従って、そこから一気に「1階窓を割り突入」型の家宅捜査に進む手は、滅多に使えるものではないと思われる。

それを考えると、まさに快挙。

警察が優れているのは間違いなさそうだが、それも自ずと限界があろう。大半のケースはそこまでに辿り着けず状態ではなかろうか。たまたま発見できた長期監禁例もあるのだから。

但し、一般的には、日本は、変質者の被害が少ない国とされていそう。
米国なら、児童の下校時に大人が付き添うのは常識だが、日本ではそのような体制とはまだまだ縁遠いからでもある。もっとも、小学校の入口に警備員が立つようになったから、それ以前の無防備な状況から見れば大きな変化と言えなくもないが。

しかし、どんな社会だろうが、異常嗜好者は存在するもの。民族によってその割合が大きく違う理屈も考えにくかろう。
本当に、日本国内の被害が少ないとしたら、地域社会に、注意を喚起する仕組みが備わっているからでは。
腑に落ちぬ行動をとる人がいると、ただちに警告が発せられる訳である。
そのお蔭で、異常性発露が抑制され、事件発生にも至らないと考えるのが妥当だろう。

問題は、マクロで見れば、その状態が今も保たれているとは思えない点。
この事件が発生した地域では、地域の目が行き届いていたようだし、警察に協力し、なんとしても解決させようという住民の方々の強固な意識があったように映る。

だが、いつまでも、こうした体制に期待する訳にはいかないのでは。・・・今回の児童誘拐を、氷山の一角と考えるなら。

今回の報道が今後どのような進展を見せるのか定かではないが、そんな風に考えるなら、犯行に至った背景説明や、心理解説は止めた方がよかろう。
全く見ず知らずの人を拉致したり、場合によっては殺人までという仕業を、犯罪者の性格形成過程から説明すれば、それは、その事件の「例外性」を目立たせることになりかねまい。
この手の事件はどこでも発生しうると考えるべき時代に、それではいかにも拙かろう。
小生は、他の人と違う環境にいたから、異常者になったとして、こうした事件を扱う姿勢は間違っていると考える。

例えば、暴力し放題ゲームや猟奇的な小説だらけの社会に陥れば、それらに異常に感応し、現実世界と空想世界を混同するオカシイ人がでてくるのは驚くことではない。暴力・猟奇モノ好き人口は小さくなさそうであり、そこに異常者が混じってくれば、事件は必ず発生する。異常者は数が少ないだけで、どこにでも存在しているからだ。

しかし、あからさまにそんなことを言い出し始めて、社会不安に陥ったりしたら元も子もないので、だれも、そんな話をしないだけ。
そこで、当該異常者は、例外的環境で育ってきたとの話に仕上げたくなるのだと思うが、小生は、それは無理筋だと思う。

と言って、暴力・猟奇モノは徹底的に規制すべきという単純な動きには注意が必要。但し、社会がそれを肯定していないことを示すための、最低限の当たり前の規制が不可欠なのは言うまでもない。
重要なのは、こうした風潮は社会的状況から生まれた「結果」にすぎぬとの見方。つまり、徹底規制を進めれば、どんな副作用を生み出すかわかったものではないということ。新たなタイプの異常者が大量に生まれたりしたら、たまったものではなかろう。

(記事) 事件前ナンバー偽装か 倉敷小5女児監禁、計画性も 2014/7/21 中国新聞

(C) 2014 RandDManagement.com    HOME  INDEX