表紙 目次 | ■■■■■ 2014.11.2 ■■■■■ 戦略的思考人の訃報に接して 小生が、岡崎久彦さんの本で読んだことがあるのは、「戦略的思考とは何か」[中公新書]だけ。ようやく、戦略という言葉が頻繁に使われるようになった80年代前半の著作。 驚いたことに、未だに読まれているそうだ。 当時、巷で、オピニオンリーダーとして登場する高名な方々とは、「・・・絶対反対」という方々だらけ。ただ、そのような単純な主張に映らないようなレトリック的工夫は盛んだったが。 当たり前だが、「絶対」という言葉でわかるように、反対論をすべて封殺する姿勢そのもの。何故、異なる見解が生まれるのか考察するどころか、ただただ、意見が違う輩はすべて「人類の敵」という姿勢。理屈はわからぬが、その敵を叩くことが民主主義を護ることになると公言して憚らない人達だらけ。 もっとも、それは過去形ではない。今もって続いている。 そんな環境下で、誰が考えても当たり前のことを、岡崎さんが、ようやくにして語ったということでもあった。 ある意味、衆愚をこれ以上続けるなという警告でもあった。 と言っても、文章は平易そのもので、中公新書にしてはずいぶんと一般向けだナと感じた覚えがある。読み方にもよるだろうが。 要するに、単純な質問に全く答えようともしない人達に政治が牛耳られる状況に、警鐘を鳴らしたといえよう。・・・ 「戦争をしないと言っても、巻き込まれたらどうするつもり?」 換言すれば、平和を保つオプションとして、英米の枠組みに乗らず動く手があるなら示して見せヨとなろうか。 とは言え、米国の政治システムはもともと欠陥だらけ。民主主義のモデルとは言い難い。それに、米国の動きも、国内対応のご都合主義的なものだらけ。他国はそれに翻弄されがち。 結局、本筋と抹消的な話がゴチャゴチャになりがち。 まあ、現実とはそういうもの。 その点、わかり易すぎるのが、この本の難点。 もちろん、難解な論理展開に価値ありということではない。・・・切れる「戦略」とは凡庸な訳がなく、クリエーティブなものと言うだけの話。 つまり戦略策定とは、分析的思考ではなく、概念的思考の領域の話。習えば身につくようなものではない。 そうそう、時代背景というか、戦略策定の前提条件の確認も重要だろう。 米ソの陣取り合戦の様相を見せていた時代なら、日本国内における反米・反軍備の「適度」な運動を煽ることは、経済発展第一主義の視点では、悪くない戦略的な方針と見ることもできよう。安全保障は米国依存とし、資源を経済発展に投入できるからだし、経済的にも支えてもらうえるとしたら、これほど効果的な方針はなかろう。それは、裏を返せば、従属国として生きようということでもある。しかし、そんな考え方を公言する訳にもいかぬし、正直に、それは見せかけで、米国を上手く利用することが肝との主張を大っぴらに展開することもできかねるのは当たり前。 つまり、価値観とビジョンによって、戦略とは、いかようにもなることも、注意点である。 従って、優れたテキストを読んだからといって、自分の頭で考える習慣を持たないと、戦略論を学べるとは限らない。繰り返すが、もともと、その手の学習で概念的思考が必要な戦略策定能力が付くとは限らないのだ。 おそらく、岡崎久彦さんはその辺を百も承知。だからこそ、洞察力を殺しかねない「群れ」つくりを避けたのだろう。 その辺りが、80年代前半の本を読んでわかるならよいのだが。 簡単な質問も今では大きく変わっている訳だし。・・・ 「武力行使反対だそうだが、イスラム国の巨大化を放置せよということ?」 言うまでもないが、正解など無い。 従って、100%自信を持って語れる対処法がある訳がないのである。それに、どのような世界を理想とするかについても、人それぞれなのだし。 そんな状態で、旗幟鮮明な主張をすることに、どれだけ意味があるか、考える必要があろう。 重要なのは、議論を通じて「考える」場をつくることでは。 主張は、「・・・かも知れぬ。」でも十分なのである。 それを、どっちつかずの日本人的な書き方は最悪と言う人もいるが、実に短絡的発想。日本では、議論の場が確立していない状況であることを踏まえないと。それこそ、「自己主張」を、群れてスローガンを叫ぶことと同義と考える人だらけの社会なのだから。結局、なんの議論もできず、それぞれ勝手に大声をあげて罵倒し合うだけでは、どうにもなるまい。 ところで、岡崎さんだが、政権の顧問的存在としてご活躍だったという。ようやくにして、主張していた方向感を生み出せたとご満足だったに違いなかろう。 やるだけのことをやった上での旅立ちと言えそう。 (C) 2014 RandDManagement.com HOME INDEX |