表紙 目次 | ■■■■■ 2015.6.26 ■■■■■ 病院の終末期「医療」の見方 "「終末期」の対応が大きく遅れている日本"との問題提起はマトモ。 しかし以下のご指摘はどうかナ。 死の文化だけが、 日本は他国とまるっきり異なり、 それが数字に表れている。 【病院死亡比率】 日本:80%近い。 欧州諸国:50%前後。 オランダ:30%台。 小生には、頭のなかだけで考えた評論という印象あり。 日本の場合、どこの施設だろうが、出来る限り施設内での死亡を避けるのが常識では。「死」の穢れ感という訳ではない。仕組み上避けられないのである。 担当診察医が決まっていて、電話すればすぐにかけつけてきて、死亡診断書を作成。そうなら、コトは簡単にすむ筈。 ところが、そうはいかないのが現実。そのため、病院に搬送し、そこで死亡診断書を書いてもらうというのが普通のプラクティスでは。 プロの施設でこの状況。一般家庭なら更なり。 何故かは説明の要なしだと思うが、一応、少々触れておこう。他殺や自殺ではないと断言できなければ、「死者発生」は捜査の対象となるというに過ぎない。死亡状態によっては、要解剖所見となる可能性も。民主国家では当然の姿勢。そうなっていない地域は、民主主義とは縁遠い胡散臭い政治風土が蔓延しているにすぎない。 そもそも、この評論は論旨が一貫していない。 終末期をどうするかは、「本人の選択」とすべしという話かと思いきや、唐突に、欧州とは「死生観が違う」と言いだす。 それこそ、信仰に係る問題かも知れぬもので、どう考えようと本人の自由である。「人生は楽しむためにある。楽しみを奪われて生き続けることに価値があるのだろうか。」という考え方もあろうが、それを押し付けたい訳かネ。 歴史を学んだことがあればおわかりだと思うが、そのような文化の問題での「正義」とは、国家社会主義か宗教カルトへ流れるもと。 問題の立て方を間違ってはいけない。 変える必要があるのは、個人の意思確認の「方法」である。前もって、意思表明をというのは、頭でっかちの理想論であり、実践論で言えば別に難しい課題という訳ではない。 「本人は、楽しみを奪われても生き続けたいと主張すると推定するか?」と家族にYes.にチェックの上サインしてもらうだけのこと。わからないので答えられないというのは家族の責任逃れであるから、罰則規定を設けるべきである。なかには文書上だけの家族もいるし、家族がいない人もいるから、その対処も必要。と言うことで、本当は、そうそう単純な方策でもないのは事実。 実際、「人生は楽しむためにある。」とは思っていない人も存在するのは誰もがご存知のこと。臨床統計からせいぜい数か月生き延びれる効果しかないことが判明しており、治療の副作用だけはとてつもなく厳しいので、まともな生活は全く送れなくなるとわかっていても、敢えて、公言までして、そんな治療に挑戦する人もいる。確率がゼロに近かろうが、例外的現象はあるうるかも知れぬということで。それこそが、人生の美学かも。 もちろん、そんな治療はご免蒙るという人もいる。 個人の選択に、口をさしはさむべきではなかろう。 ともあれ、医師の役割はわかり易く状況説明をすることで、意思決定に係ってはいかんのである。 そうそう、日本の場合は、本人だけでなく、家族の「選択」になるのは致し方なかろう。なにせ、「周りに合わせて決めて欲しい」と言われてしまえば、そうするしかないからだ。それは、意思薄弱どころか、強固な自己主張があったりする。 「皆の迷惑にならぬように取り計らって欲しい。」 これこそが文化の違いである。 (source) 浅川澄一 [福祉ジャーナリスト(前・日本経済新聞社編集委員)] :"日本はなぜこれほどまでに「病院死」比率が高いのか" ダイヤモンド・オンライン 2015年6月24日 (C) 2015 RandDManagement.com HOME INDEX |