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■■■■■ 2015.7.1 ■■■■■


聞初蝉

ああ夏だと感じるのは、日照の強さと気温だが、その昔は蝉の声だった。
10日間樹上で鳴くために、地中で10年耐えるという生物を愛おしく感じる風土を維持したいものだ。

もっとも、耐えている訳ではなく、地中でぬくぬくお気楽な生活していただけかも知れぬ訳で、それを勝手に解釈して都合のよい哲学を広げようとの魂胆にのせられていると言えなくもない。蝉の気持ちがわかる筈もない訳で。
それに、本当のところは3週間・3年と耳にしたことがある。しかしながら、17年あるいは13年毎に膨大な数の集団で地上に登場する種もいる。まさに、蝉生色々。
   「素数ゼミの謎」読後感[2006.2.15 ]

初蝉についても似たようなことが言えよう。
たいていはずっと以前に耳にしていることが多い。それが頭に残っていないだけのこと。
一度、梅雨明けを見透かしたかのように鳴き始めるとの概念が叩き込まれると、無意識下で余計な情報が切り捨てられるのがヒトの習性なのである。つまらぬ話は、情緒を殺してしまうから避けたいところではあるが。

古代人が、初蝉に、はたして風情を感じていたかはなんとも言えぬが、古くから東アジアで、季節の移り変わりを示す指標として用いられていたのは間違いない。

  仲夏之月、・・・蝉始鳴。  [禮記 月令46]

しかしながら、作詩したかった人は稀だったようだ。そのお蔭か、以下はそれなりに知られているようだ。

    「初蝉」 舒岳祥[1219-1298]
  雨余山气凉、高林發清
  黄百囀罷、初蝉始幽咽。
  独繭曳長繰、既續還又絶。
  衰年感時節、坐久心寸折。
  梦歸伊川上、樹深泉乱發。
  倚杖听多時、残陽満双闕。

なんと幽咽というのである。五月蠅と感じる西洋の人々とはえらい違い。
しかし、蝉の声といっても、厄介なのは、どの蝉なのかによって、印象が大きく変わる点。・・・そんな感覚の人はとんでもなく少数しかいないか。芭蕉もセミはセミでしかなかったようだし。

尚、「新蝉」は初夏に鳴いている状況を指し、"初"とは違うらしい。

  「開成二年夏、聞新贈夢得」 白居易
  十載與君別、常感新鳴。
  今年共君聽、同在洛陽城。
  噪處知林靜、聞時覺景清。
  涼風忽、秋思先秋生。
  殘槿花邊立、老槐陰下行。
  雖無索居恨、還動長年情。
  且喜未聾耳、年年聞此聲。


小生としては、「ミ〜ン、ミ〜ン、ミン。」で行きたい。桜の木が多い所では、このタイプの声が多そうな感じがするがどうなのだろうか。
樹木が茂っている公園だと、間違いなく「ジー、ジー、ジ、ジ。」だが。これだと、アー、鳴いているなだけで終わる。"爺々"で演奏が終わると、さあて、生ビールでも飲んで帰るかとはならないのである。
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