■■■■■ 2011.2.8 超日本語大研究 ■■■■■

 日本語への語順文法適用は無理を生じる

--- 日本語の主語述語構造は融通無碍である。 ---
 義務教育を通じて、日本語文章の基本はSOV構造であり、英語のSVO構造と大きく違うと頭に叩き込まれる。そのため、SOV構造の言語にどうしても類似性を感じてしまう。SOV構造と言うだけで、どこか大元でつながっていると見なしがち。・・・ということを、アジア東端の3つの「孤立言語」の話[2011.2.4]で述べたが、少し説明不足だったか。

 おそらく、この手の話はいくらでもある。しかし、こんな主張が力を持ったりすれば、学校文法が成り立たなくなりかねないから、無視するしかないのが現実。それに、構文がどうでもかまわない言語だということになれば、「文明開化」以前の社会と感じてしまうから、そんな説は心理的にも否定したくなるのはわからないでもない。しかし、どう見たところで、日本語は構造言語ではない。

 だいたい、古文を習えば、SOV構造で考えた途端に訳がわからなくなる。
 枕草子のイの一番からして、文法どころの話ではあるまい。
   「春はあけぼの。
    やうやうしろくなりゆく山ぎは、少しあかりて、
    紫だちたる雲の細くたなびきたる。」
 主語はなんなのかね。そんなことを考えればかえってゴチャゴチャするのがオチ。
 つまり、学校文法に当てはめようとした途端に、えらく厄介なことになる。だからこそ、古文の授業はえらく嫌われるのでは。

 「春はあけぼの。」に主語を設定して、定型構造の文に変換した途端にイマイチな作品になってしまうのは明らか。それは、文の構造で情緒を伝えているから。英語とはコミュニケーションの基本姿勢が違うということ。
     “In spring, it is the dawn that is most beautiful.”
       [Ivan Morris: “The pillow-bppl of Sei Shonagon” Cokumbia Univ. N.Y. 1991]

 どう見たところで、日本語は主語述語の語順があって始めて意味が伝わる定型構造型の言語ではないのである。主語述語が省略されているなどと言うのは、構造言語文法論で解釈するからにすぎまい。日本語は語順はいかようにもなるし、それこそが重要な表現手段でもある。ある場合は、情緒を共有するための文章だったり、自己主張のこともあるが、それが語順感覚に繋がっているのだ。状況によっては、わざわざ曖昧な主語に聞こえるような表現もありうるということ。
 従って、SOV構造が多いから、日本語と類似な言語といえないのである。相手が語順をルール化している構造言語だったとしたら、似て非なるもの。

--- 「雪国」冒頭の主語論を知りながら、その意義を無視し続けていまいか。 ---
 枕草子は古語の部類だから、典型例としてあげるのはまずいか。
 それなら、「雪国」といこう。こちらは、ノーベル文学賞受賞後に、翻訳文をめぐってずいぶん話が弾んだから、主語問題もよく知られているのではないか。

 今でも、認知言語論のよきテキストらしいし、翻訳実務家にとっても、議論対象として使い易そうな題材だ。興味があれば、様々な主張に触れることもできよう。小生はその手の論議に関心は薄いので、冒頭の一文を取り上げ、かつて騒がしかった頃を思い出して、簡単にまとめるだけにしておこう。
    ・Edward George Seidensticker翻訳文
       The train came out of the long tunnel into the snow country.
    ・これを日本語に直訳すると、・・・
       その汽車は長いトンネルの外に出て雪国に入った。
    ・川端康成原文
       国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 考えて見れば、実に厄介な文章である。
 英訳文は、高みから、汽車の運行状況を客観的に眺めたような記述に近い。しかし、原文が語りかける情景は全く違う。これは主人公の回想の言葉であり、心象風景でもあるからだ。
 従って、どうしても主語が必要なら、本来なら“私”。
 だが、読む側が、“私”の心の動きを感じ取るには、全体状況("場")を把握しておく必要がある。乗っている汽車がトンネルを通過し、雪景色の地帯に入ったという情景を理解することが大前提。その点では、翻訳文は的確そのもの。
 ただ、この汽車の窓から景色を眺めている主人公の存在を、この文章から感じることができないと、原文のニュアンスはどこかに飛んでいってしまう。そうならないという保証は無い。英文の読み手には、そこまでの質が要求される訳である。
 特に、理解が難しそうなのが、“long tunnel”という表現。トンネルの物理的“距離”が長いという印象を与えかねないからだ。騒音と暗闇の中を走る車内で、“長時間”に渡りじっとしている自分の存在を、この訳文から感じ取れないと、この"場"の情感が湧いてこない。
 そして圧巻はトンネルの終わり。突然、車内が明るくなり、窓の外を眺めると、一面の銀世界という感覚が生まれる。原文には、それが息を呑む瞬間と感じさせる仕掛けがなされていると言ってもよかろう。“雪国であった”という、いかにも主人公の告白的表現になっているから、読者はそう感じてしまうのだと思う。実に微妙な言い回しである。
 言うまでもないが、主語が汽車だと、そこから主人公の心の動きや、“気付き”を探るのはいくらなんでも無理である。翻訳者の力量が抜群でも、言語上、その壁は突破できまい。

--- "場"の言語の文法なくしては日本語の本質は語れない。 ---
 ついでながら、英語を習えばすぐに直面する“Yes v.s. NO”問題も同じようなもの。

 英語は文章ありきの構造言語だから、主語の設定なくしては文章にならない。
 一方、非構造言語である日本語は、話す相手との場を設定する言語だから、主語などどうでもよい。従って、無理に主語をつけたりすれば、英語の構文のルールに合わなくなったりする。それが端的に現れるのが、“Yes v.s. NO”問題である。
 実例で考えれば、その本質はすぐにわかる。

 先ず、構造言語発想で対比してみよう。両者は完璧に一致する。
    「佐藤さん ですか。」・・・・・・・・・・“Are you Mr. Satoh?”
    「はい。 そうです。」・・・・・・・・・・“Yes, I am.”
    「いいえ。 違います。」・・・・・・・・・・“No. I am not.”

 しかし、この英文は日本語での対応を直訳したものではない。
 日本語は"場"の言語であるから、「そうです。」とは「貴君の言った通りです。」だし、「違います。」は「貴君の言ったのは間違いです。」という意味なのである。上記の英文では主語が"I"だが、日本語を直訳するなら主語は"It"["What you said"]にすべきということ。
 それで直訳するとどうなるか。
    「はい。 そうです。」・・・・・・・・・・“Yes, it is so(right).”
    「いいえ。 違います。」・・・・・・・・・・“No, it is wrong.”

 おわかりになると思うが、“No, it is wrong.”は誤構文になってしまう訳である。構造言語である英文法的な発想で、"場"の言語のルールを解析することは無理ではないかと気付かされる好例である。

--- 欧州語にしてから、昔は、語順など重視していなかったのだぜ。 ---
 そうそう、英語を書いていて思い出した。[2011.1.21] その昔、欧州の言葉も、SVO構造ではなかったと見てよいのでは。以下を眺めて主語が何で、どういう語順か見て欲しい。
  【ギリシャ語文】
  Eν αρχη ην ο Λóγος,
  και ο Λóγος ην προς τον Θεóν,
  και Θεοó ην ο Λóγος.
   ↓  
  【ラテン語文】
  In principio erat Verbum
  et Verbum erat apud Deum
  et Deus erat Verbum.
   ↓
  【英文】
  In the beginning was the Word,
  and the Word was with God,
  and the Word was God.
   ↓
  【和文】
  初めに言葉ありき、
  言葉は神と共にありき、
  言葉は神であった。

 ちなみに、聖書の原典たるヘブライ語、アラム語はVSO型らしい。尚、ラテン語には定型的な語順がないとされるが、日本語との類似性を主張する人は日本語と同じSOV型であると見なす。

 繰り返すが、統計的にどうであれ、"場"を重視する言語なら、語順どころか、主語述語の不可欠性も、たいした問題ではないということ。

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