■■■■■ 2011.3.7 ■■■■■

 書評: 「日本語と時間」

 無理矢理に学校文法を叩き込まれた被害者であることを今頃になってようやく知ってから、日本語に興味を持ってしまった。しかし、いかんせん素人。マインドセットを解き放ちたいが、どこから手をつけるべきか皆目わからぬ。
 そんな時、たまたま、帯の一言が目にとまったので読んでみた本がある。折角だからご紹介しておこう。副題が文法の割には読みやすいのでお勧めである。ただ、古文を全く読まない人だとさっぱり面白くないかも。
 ・藤井貞和: 「日本語と時間―〈時の文法〉をたどる」 岩波新書 2010年12月
     大山美佐子氏(岩波書店 新書編集部)の解説 [時の助動辞四面体図掲載]

 どうしてこんな小難しそうな文法書をとりあげるのか腑に落ちないだろうが、それはこの本の"あとがき"の一言を引用させていただけばおわかりになろう。・・・「文法がけっして学習者にとっての"検閲"になりませぬように!」 いやー、実に嬉しいお言葉。
 そう、学校文法は、有無を言わさず「正しい文章にせよ」と命令を下す、言論統制手段そのもの。それでも、それが正しいならまだしも、疑問だらけな代物にもかかわらず、それに従えというのだから腹立たしいことこの上なし。ただ、それに反抗したりすれば村八分の憂き目もありうるし、そこまでいかなくても社会的に不利益を蒙ることになる。とかく日本は住みにくい。

 ちなみに、帯の文章は"古代人は「過去」を6種類にも言い分けた?"となっている。こう書かれると、気になる人は少なくないから、宣伝文句としては秀逸。
 ただ、言い分けの種類が多いことより、これらの言葉が結局のところ1種類に統合されてしまったという点が、著者の一番の気がかりと思われる。言文一致の明治政府の方針のもと、すべてが消されたらしい。

 その結果、源氏物語の現代語訳では、言葉の違いが全く省みられなくなっているのだという。お陰で、時間的表現の機微が全く味わえないそうである。
 しかも、問題はそれだけで留まらない。時制的統一が習い性になっているのか、叙述が常に「過去形」だというのである。こうなると、原文が醸し出す情緒が消える可能性は高かろう。絵巻的物語とは、いわば映画。話の中味は過去であろうが、現在形で語られておかしくないのだ。だからこその絵巻物とも言えるのだ。これを時制で縛るような表現にしてしまったら、つまらぬものになるのは確か。
 では、何故そうなるか。
 叙事詩の類は西欧では「過去形」表現に決まっているからというのである。これが本当か判断する能力はないが、さもありなん。

 こんな話を聞けば、本書の特徴もご想像がつこうというもの。
 "時"感覚を解き明かしている文法書とされてはいるものの、素人からすれば、文章の終わりの情緒感表現の"辞"を味わうための本。そう思ってお読みになると、結構面白い。
 実は、そんなことができるのは、古文が読めるかどうかにかかっている訳ではない。6種類の"辞"が強引に統一されたというが、実は消滅している訳ではないから。多くは、今もって現役なのである。もちろん、五七五の世界だが。
 現代語だけだと拍を揃え難いので利用することもあるが、多くの場合、"辞"に特別な感情が込められている。その情感は学校文法や古典の教育で頭に叩き込まれたものではなさそうだ。詩歌や文語的表現の警句等に触れることで、なんとはなしに身についてきたものだと思われる。従って、それぞれの意味は曖昧そのものだが、それがかえって独特の情感を生み出しているとも言える。どうせ、言葉では言い表しきれないのだから、それで十分ということでもあろう。小生は、それこそが日本語表現の真髄だと見ているのだが。

 そんな日本語の特質を考えると、藤井式"時の助動辞四面体"は役に立つものかも。表現を磨き込みたい人には乙なものと言えそう。ただ、小生の趣味には合わぬ。
 素人からすれば、6種の"辞"にまつわるお話を読みながら、現代まで生きのびた言葉に思い巡らす方が楽しいからである。例えば、こんなところ。
  「き」・・・・"初めに言葉ありき"を知らない人はいまい。
        最近は、"ツァラトゥストラはかく語りき"が流行っているというから驚きだが。
  「けり」・・・"桐一葉 日当りながら 落ちにけり"をあげたい。
        しかし、なんといっても、"昔、男ありけり"が代表か。
  「ぬ」・・・・"松風や 軒をめぐって 秋暮れぬ"はどうか。
        否定の"ぬ"との違いの解説は理解不能だったことを思いだす。
  「つ」・・・・これは、なんといっても、「若紫」。
        "雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠の内に籠めたりつるを。"
        源氏物語はさっぱり興味が湧かないが、ここだけは好み。
        小生だと、"つ"と言えば"行きつ戻りつ"感覚が浮かんでしまう。
  「たり」・・・"お財布に 小銭ばかりが 残りたり"なる駄作で失敬。
  「り」・・・・"肥満鳩 ようようにして 飛び立てり"などとモノすると、相手にされなくなるか。
 そうそう、以上の"辞"が何に統一されたかだが、言うまでもないから割愛。そんなものを認識するより、この6種が廃れないようにしたいもの。

 ここら辺りがこの本のメインストーリーだが、小生が気に入いったのはここだけではない。
 どういう訳か、アクセントについての解説が含まれているのだ。そこでは、「日本の基盤にアクセントはない。」と言い切っておられる。小生も、そう思っていたが、アクセント導入の流れを読んでさらなる納得感が得られた。「最古の基層日本語が等時拍式の一音一音であったという推定は、ハワイ語、マオリ語や、太平洋諸語にもひろがる、雄大な課題」ということでもある。
 これこそ、実は、日本語の肝。本質的にアクセント表現を軽視せざるを得ない言語だからだ。その理由は、日本語の詩歌は一行の文章で完結するからである。短い文章にすべての情感を詰め込むのだから、聞き手に真意を間違いなく伝えるには、一つの方法以外あり得まい。そう、それは拍動というか、息遣いである。体の中から魂とともに抜け出る母音こそが命なのだ。
 ただ、最初から拍子が決まっていたとは考えにくい。多分、海外から到来した五七五調がえらく気に入り、一気に浸透ということだろう。
 この本を読むと、日本はそんな言語だという思いにかられてくる。

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