■■■ 2012.6.8 ■■■

   敬語使用再興の手

敬語が崩れつつあることを嘆く方が少なくない。確かに、それは残念なことではあるが、世の中が変わりつつあるのだから大目に見てもよいのでは。
重要なのは、場の状況を認識して、適切と思われる表現をすること。多少、おかしくても、気持ちがこもっているのがわかるなら、かまわないと思うが。

そう考えるのは、「敬語」だけ取り出して言葉の乱れを云々するのは余りに偏っている見方ではないかと思っているから。「敬語」使用を日本語の類稀なる特徴の一つと考えるのは、視野が狭すぎると見ているせいでもある。と言うか、「敬語」とは、会話参加者が「場の雰囲気」を暗黙のうちに了解していることを示す話術の一つにすぎず、「場」が変化すれば、話術も変わって当然と考える訳である。

ただ、「敬語」学習を通じて、そんなことに矢鱈にこだわる言語は滅多にないことを知ることは大切である。
もちろん、英語学習で、その違いを認識しておく必要もあろう。余り表立って言う訳にはいかないが。・・・よくわかるのは、労働党の政治家の発言。一般大衆に話す時と、知的階層相手の時では、全く発音が違う。テレビニュースで女王不要発言が流れることがあるが、その言葉はさらに乱雑。心地よくない響きに聞こえると言う人がいるが、それは話す内容ではなく、言い回しやイントネーションが全然違うからである。明らかに、英国では、階層毎に言葉がかなり違う訳である。
政治家は、場に合わせて2種類の言い回しが必要だが、他の人はおそらく不要では。

勿論、日本語にもこうした階層毎の違いはある。
しかし、日本語の場合、英国のように3階層などと大きく分けることなどとてもできない。様々な「場」に応じた言い回しがあるからだ。この使い分けに熟達しないと、日本社会のメンバーと認識してもらえないから、たいていの人はこのスキルを身に着けている。ただ、それを自覚していない人だらけだが。
従って、「敬語」のスキルは今一歩でも、こうした「場」に合わせた言い回しスキルが欠落している訳ではないのが普通。逆に、このスキルの重要性を認識しているからこそ、「敬語」が苦手かも知れないのである。このパラドックスは要注意。

どういうことかわかりにくいか。
単純明快なのは、赤ん坊との対話。不思議なことに、赤ん坊に語りかける時の用語をたいていの人が知っている。「ワンワン」とか「ブーブー」なのである。児童には絶対に使わない。赤ん坊と一緒にしており、馬鹿にされたと勘違いされかねないからだ。あきらかに、こうした用語は、言葉を覚える最中の赤ん坊に合わせたもの。このことは、赤ん坊でも、一人前として扱うような会話をすべし言うルールが存在していることを示しているのではないか。
次が幼児との会話。「イヌさん」、「ハチさん」、「チューリップさん」といった表現を使うことが求められる。優しく、思いやりを感じる表現にしないといけないのである。モノにも心があるような言い回しをすることが多いのも特徴。英語で言えば、機関車トーマス如き世界での対話が求められる訳だ。
これが児童相手になると激変する。「ぼうや何年生?」、「ぼく、カレー好き?」という調子の会話になる。単語は少ないが、文法的にも、意味の解釈でも、極めて難しい言葉であるが、当たり前のように意思疎通可能。これって驚異的では。
従って、「ガイジン」相手の言い回しも存在する。それは日本語コミュニティが排他的だからという訳ではなく、どうせ下手だろうから、習いたての人が言いそうなパターンで対応するのである。「ガイジン」さんから見れば、話が通じているから日本語をマスターしている気分になるが、そうではなく、そのレベルに合わせた会話になっているだけ。
当然ながら、授業、同年代の仲間うち、クラブ活動、就職面接、等々、「場」に応じた言い回しが存在することになる。

周囲を見回せばおわかりだと思うが、こうした言い回しの種類は減っているようには思えない。「場」を理解して、それに合わせた言い回しをしないと、相手の気持ちを傷つけかねない社会だからだ。この観点では、日本語の伝統はいささかも崩れていないのでは。
にもかかわらず、「敬語」を「美しい日本語の伝統を守れ」とばかりに押し付けるのはいかがなものか。そんな主張は、下手をすると、「権力欲」や「虚飾好み」に映るかも。慎み深く相手を尊重する言い回しと見てくれる保証などないのである。「敬語」の言葉遣いを味わう場を作らず、細かな「敬語」のルールを覚えさせる強引なやり方は逆効果かも。
敬語が、「和み」や「癒し」的な表現と感じたら、皆、一斉に使い始めると思うが。


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