■■■ 2012.10.18 ■■■ 素人実感に基づく言語の3分類 外国語を話すのはどうも気が進まないという若者が結構増えてきたと耳にした。別に、国粋主義的風潮という訳ではなく、グローバル経済大賛成派内での話し。しかも、それが、コミュニケーション上手と言われていたりする人だったりするらしい。幼稚園からエリートコース歩んできた上、優秀と評価されている人も含まれているというから驚く。 不得手なところを見られると、面子が立たぬというなら、一所懸命勉学に励むタイプの筈なのに、どうしてこうした姿勢をとるのだろうか。実に不思議である。 少し考えていたら、なんとなくだが、その理由が見えてきた。じっくり検証した訳ではないから、間違っているかも知れぬが。・・・日本語は他言語とは根本的に違う点があり、他言語でのコミュニケーションに深入りすると、なにか大切なものを捨て去ることになりかねないと危惧しているのでは。そのため、本気で外国語をしゃべることに躊躇しているという訳。 そんなことを気にせず、ビジネスだぜと踏み切れれば、すぐに上達すると思うが、ふっきれないとこの状況は改善しないのでは。ペーパーテストでの語学なら満点でも、会話になると心の壁にぶち当たるとなれば、これは厄介千万。 こんな説明をしても、ほとんど通じないか。 簡単に説明するには、どうしても言語を分類する必要がある。以下のような3分類だと、その違いがおわかり頂けるのでは。おことわりしておくが、素人の実感に基づく峻別なので、そのおつもりで。 (1) 音声型---英語を代表とする、梵語影響下の印欧語族 (2) 記号型---中国語族 (3) 情緒型---南島嶼語族と日本語 この3つの型について、評価してみた。 先ずは言語としての安定性。 音声型は、この観点では、比べるまでもなく圧倒的。 間違えてはこまるが、「音声型」と名付けたといっても、声が直接的に言葉になった訳ではない。音の概念が最初につくられ、それが言葉になったのである。西洋型の教育を受けてきたから、コミュニケーションの成り立ちから考えると一番自然なタイプに映る。 何故、安定かといえば、それは概念ありきという点。・・・概念の拡張は可能でも、モトとなる概念は伝承。つまり、ヒトは言葉を創造することはできないと見ることもできる。神が言葉をつくったという見方は、この点で一理ある。 従って、バベルの塔云々は別として、神が言葉を通じなくしたと見なす聖書的思想もうなずける点がある。もちろん、全く逆の見方もできる。神が作ったのは概念で、それは絶対的なものと見なせばよいだけの話。発音が様々なのは当然で、その多様性こそ神が与えた賜物と考えることになる。こちらは梵語的といえそう。 ただ、この話は、「梵語影響下の印欧語族」という分類上の見方には全く関係無い。ここでの梵語的とは、「正しい」文法と「誤った」文法という考え方が存在するということ。これこそが、印欧語圏から巨大覇権国家が生まれた原動力ともいえよう。科学技術の伝達や、外交通商場面では、正規の文法で表現すれば、意志の疎通が間違いなくできると確信できるからだ。 安定性抜群とは、こうした意味。 尚、文字は、聴いた音をどう表現するかだけの話で二義的な話。 一方、記号型は、これに比べ、かなり不安定である。 それは、記号自体がヒトの創造物であり、いかようにも変えられるからである。従って、言語が神から与えられたものと考えるより、神の代理人が与えたと解釈するのが自然だろう。 当然ながら、このタイプは、一記号(文字)一概念一発音が原則とならざるを得ない。発音が即時に概念に直結せず、記号を通すことになるので、記号を統一化できれば、書き物上でのコミュニケーションは安定したものにある。しかし、それは言語の安定性を意味することにはならない。記号をどう発声すべきかという点では、勝手気ままだからだ。 文化が変化すれば、新しい記号が生まれたり、全く別な発声が登場しておかしくない。音声型における、新語創出や音の変化とは質が違うのである。 但し、記号(文字)を定着させれば、概念自体は永続的なものになる。その点ではピカ一。中国の「記号」の歴史4000年というのは確かである。しかし、中国に於ける言語の実態は、昔から、欧州言語以上にバラバラだったと見た方が正しかろう。中国語という言語がある訳ではなく、様々な言語が生まれたり、消滅してきたということ。 さらに、情緒型になると、不安定そのもの。日本語は本質的に揺らぐ言語なのである。それは、文法重視ではないから。 しかも、記号型でないにもかかわらず、中国語の文字を用いることにしたから、もう滅茶苦茶。一つの文字で、漢音、呉音、宋音、訓、といった具合で、複雑この上なし。その上で、西洋各国の言葉も無原則に取り込むから、なにがなにやら状態。だが、情緒によるコミュニケーションが身上の言語なので、たいした問題ではないのである。借りてきた文字や発声の言葉は、情緒的に理解してそれなりの概念にしてしまう。概念は明瞭ではないから、こんなことが可能なのである。 それに加えて、構造的な文法は原則論でしかない点が他の言語との大きな違い。実際の会話を見ればわかるが、細かな文法はあるが、大枠としての文法はほとんど無視される。それでも通じる柔軟性があるというより、文法を無視した方が互いに分かり合えるというのが実情では。学校文法とは、印欧言語の物真似以上ではない。それは、枕草子や源氏物語を読めばすぐにわかる筈。そこに、SVOという手の文法論を持ち込んでもなんの役にも立たないからである。 そして、単語一つとっても、じっくり観察してみれば、いかにその概念が情緒的で、曖昧模糊としているかわかってくる筈。一例として、「みる」(見る)を英語と比較してみよう。・・・ ・see 自然に視界に入る ・look 意識的に目を向ける -watch じっと、動き・変化を見逃さまいと -peer じっと、よくよく、目を凝らして -glare じっと、ぎろりと、怒りなどでにらみつける -stare じっと、じろじろと、好奇心・驚き・恐怖などで -gaze じっと、熱心に、感動・感嘆などで -gape じっと、唖然として、驚いて口をぽかんと開けて -peep こっそりと、見つからないように穴や隙間から -peek こっそりと、子供っぽくすばやく隠れて -glance ちらりと、すばやく視線を向ける -glimpse ちらりと、一瞬部分的に視野に入る -view 注意深く、特定の目的を持って -observe 注意深く、特に、詳しく知ろうとして -regard 注意深く、特定の見方や態度で 実は、これで済まないのである。「みる」は「見る」とは限らないからだ。パソコンで変換すると、「視る」、「診る」、「観る」、「看る」がでてくる。これらには、それぞれ、surveillance, examination, sightseeing, nursing、といったニュアンスが含まれており、上記の範疇から逸脱していると見て間違いなかろう。「音声型」や「記号型」の言語からすれば、一単語に複数の概念を当てていることになろう。 概念ありきという思想からみれば、融通無碍的な概念の言葉が存在する訳がないということになるから、こんな見方は即座に否定されるに違いないが。 一方、日本文化の視点で見れば、なんの問題もない。言葉には魂が篭もっており、周囲を揺り動かす力があると考えている訳で、共有「概念」で意思疎通を図る以上の役割があるのだから。心で通じあえるということ。なにせ、特別な目的がなければ、自分の名前さえ、他人に明かすことさえなかったのである。そんな行為は他人に心を裸にして晒してしまう感覚だったと思われる。 こんな風に考えると、「情緒型」言語は、霊的という点では比類なきと言えそう。外国語を話すのを避けたくなるのは、そんな日本語感覚を捨て去ることになりそうで、気が重くなるということでは。 これを突破するには、こうした言語の違いを踏まえた文法が必要ではないか。そして、それはたいして難しいことではなさそうである。 例えば、印欧語の構成を、「名詞」、「動詞」、「動詞付属詞」、「状況小詞」として認識すればよいだけのこと。be動詞とか、haveを助動詞という特別な扱いをせず、すべてを単純に「動詞」として、その単語が示している概念を学べばよい。こうすれば、日本語的になる。 文法も、文章の構成から入らずに、言いたいことの順序で考えればよい。 イの一番は、主語を決めるとか、どの「動詞」を選ぶということではなく、動詞で表現したい環境を決めること。例えば、過去とか、現在といった時制。その上で、伝えたい意味に合う「動詞」の語根を選び、「動詞付属詞」を選択することで、活用形が決まる訳。 その次ぎが、「動詞」の主語に当たる「名詞」の選定。それに応じて、さらなる「動詞付属詞」を選択する必要が生まれる。その上で、その名詞の特性を示す冠詞のような「状況小詞」を付加すればよい。ここまでくれば、文章の骨格、「S+V」の出来上がり。 あとは、「動詞」の意味内容に応じて、別な「動詞」や「名詞」の変化形をつなげて文章を豊富化するだけ。その意味を伝えるためには、順番というルールがあるし、「状況小詞」を必要とする。 おわかりだと思うが、「形容詞」、「冠詞」、「前置詞」という細かな用語を、下級分類にするということ。こうすれば、「名詞」と「助詞」が主体の日本語との整合性がとれるようになる。 これ、サンスクリット(梵語)文法を参考にして書いてみただけだが、どんなもんだろうか。 (和英辞書) 野村恵造編「オーレックス和英辞典」三省堂 2008 (参考書) ピエール=シルヴァン・フィリオザ(竹内信夫訳)「サンスクリット」白水社[文庫クセジュ] 2006 「超日本語大研究」へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2012 RandDManagement.com |