■■■ 2012.10.24 ■■■ 印欧語の強さの根源を考えてみた 英語、中国語、日本語の違いについての素人論を書いていて気付いたのだが、印欧語族とは、サンスクリット文法によって、言語の「標準化」路線に乗るように仕向けられた言語群では。 この3言語、根本的には以下の違いがあると見ているのだが、印欧語族はさらにサンスクリット文法的な文章構造を採用しているようだから、この違いも大きい。そこら辺りも書き留めておこうと思う。 (1) 英語(及び、印欧語族)=音声型 (2) 中国語(中国語族のこと)=記号型 (3) 日本語(及び、南島嶼語族)=情緒型 見ず知らずの人が会話を始める場面を想定してみよう。 おそらく、言葉だけで、互いにどの程度わかりあえるか確認し、慎重に会話を始めることになろう。こうしたやり方なら、「情緒型」の日本語は実にお気楽。情緒を共有できそうな範囲内での会話が弾むからだ。文法にあまり拘らず、単語をそれなりに繋げるだけでも、なんとか意思疎通ができるからでもある。しかし、お互いのレベルが揃っていないと、話は別。とたんに感情表現が伝わらなくなってしまい、それこそ誤解だらけということもあり得るのだ。 ただ、レベルが違っていると、合わせられぬとはならない。どうしても日本語で話したいとの姿勢を見せさえすれば、仲間意識が生まれるからだ。これが、「情緒型」言語の特徴でもある。一端、仲間ウチのコミュニケーションとしての場が設定されれば、おかしな言い回ししかできない人がいても、皆、それに合わせて話をすることになる。これで万事解決。文章構造が柔軟なので、文法的におかしくても、日本語会話は成り立つのである。但し、その場限りだが。 「音声型」の英語は、これとは正反対の特徴を持つ。 全く異なる文化に属する人だろうが、しっかりしたルールに基づいた文章構造で話せば、何を言いたいのか、かなりのレベルまで、互いにわかりあえる点が特徴。例えば、印欧語と文章構造的に全く違う言語であっても、無理矢理構造を合わせてしまえば、意思疎通ができるのだ。2種類の言語の単語をチャンポン式に使った会話なら、すぐに始めることができるのである。それが広まれば、現地語の単語が次第に少なくなり、擬似印欧言語が生まれることになる。植民地では、この方式で印欧語が浸透していったと思われる。 古典的な植民地支配はその後なくなったが、言語上のこうした流れは今も続いていそう。もしかすると、日本語も揺さぶられているのかも。 それでは、その印欧言語の文章構造ルールとはいかなるものか。 英語文法では、S、V、C、Oの順番設定として5文型を習うが、これは枝葉末節的。もっと根本的なルールが内在している。 素人的見方なら、さしづめ、「文章は3つの部分で形成される」となろう。・・・「1. 導入部」、「2. 本体部」、「3. 付属説明部」である。(但し、疑問を呈する時は、こうならないが、本質的な問題ではない。) さて、3つの部分の定義だが、構文用語を一寸変えただけに過ぎない。しかし、それが肝である。 「導入部」は「S(主語)」、「本体部」は「V(動詞)」で、その残りが「付属説明部」ということ。つまり、「主語」という見方をするな、ということ。「S」は「Sub」であり、「主」ではなくて動詞の「従」。(「主語」と考えるべきは、中国語の場合。「記号型」だから、最初に提示する概念は「主語」でなければこまるのだ。)表現したいのは、あくまでも「本体部」の「V(動詞)」。「S」は、「V」の露払い役にすぎず、その動きの元を示唆するだけの単語。文の先頭に立つ理由は、主語だからではなく、どんな話題を提供するか予め提示することにある。だから、ここは「導入部」なのだ。 例えば、He talks. なら、先ずは、「彼なんだがネ」と切り出す訳である。そして、(彼は[主語])「話してる。」となる。この場合、「付属説明部」は省略されていることになる。それは、おそらく、about something と with someone であろうと推定することになる。命令文だと、直接「本体部」から始まるから、「導入部」は推定しなければならないのである。(サンスクリット文法によれば、文章を作成する場合は先ずは「本体部」から。時制を考えて、動詞を決めた上で、それに対応する主語を設定するようだ。これは思考の順序で、文章の頭から始まる順序ではないようだ。凄い。) 上記の英文だが、情緒型の日本語ではこの手の表現は滅多にお目にかからないのでは。人称代名詞を使用すると、その人物をどう扱っているか相手に伝わらないから、避けることが多いのである。「彼なんだがネ」も使わないことはないが、「奴はネ」にしたり、「○○君はサ」等と、言い回しを工夫するのが普通。矢鱈面倒だが、「情緒型」言語とはそういうもの。これを怠ると感情の共有が図れなくなるから、おろそかにはできない。英語のような人称代名詞は日本語には無いと考えた方がよいかも。 そうなると、英語は何故、人称代名詞を多用するのかが気になるではないか。ココ、結構重要な視点。いくら非「情緒型」の言語だといっても、共通認識可能な範囲を確定しておく必要はあろう。それを確認する上で、人称代名詞は役に立つということでは。互いに情報共有できていると感じたら、固有名詞でなく、すかさず人称代名詞を使うのである。仲間ウチの日本語会話で、「あいツ、もうすぐ来るって。」というようなもの。 「3つの部分」確認のために、もう一例あげておこう。It is hot, today. 「状況話なんだけど」という「導入部」が先頭。そして、(状態としては[主語])「暑いネ」が「本体部」で、「付属説明部」が「今日は」。 実に、よくできた構造だと思う。そのまま和訳を繋げれば、「状況話なんだけど、(状態としては)暑いネ、今日は。」となる。多少おかしいとはいえ、意味がわかる文章として成立しているではないか。 こんなことができるから、印欧語族の言葉は世界標準の地位を狙える訳である。それを早くから理解していたのが、サンスクリット文法学者達である。流石。 日本語は、こうした理屈っぽい言語に真っ向から逆らう手の言語かも知れぬ。そのため、未だに、コンピュータ翻訳はおかしなものになりがち。しかし、もし、上記のような印欧語型の構文ルールを日本語に持ち込めば、その問題は解決するかも。グローバル化が進展すると、その方が良いと感じる人も出てくる可能性もなきにしもあらす。 (当サイト過去記載) 素人実感に基づく言語の3分類 (20120818) 「超日本語大研究」へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2012 RandDManagement.com |